KUMAちゃんの幸せ  【五】


意味深長なハナシ


 いつもわたしに何かしら新しい創作意欲をあたえてくれるのが作家の友人Rさんと、主婦で隠れ同人作家のYさんである。

 とくにYさんは生来の細やかさと主婦としての経験から、なにくれとなく、しかもさりげなく、わたしの創作活動のみならず、神谷道場も顔負けなくらい逼迫(ひっぱく)している経済まで支援してくださり、食糧援助担当のパンピーな友人Rと並んで足を向けては眠ることの出来ない、まことにもって菩薩さまのように(時尾さんか?)ありがたいヒトなのである。

 先日もYさんから封書が届いた。開いてみればコレがナンと黄金色に輝く(斎藤さんの)さる部分の予想実物大平面模型(どこの? なんて訊かないように)。どうやらモトは菓子箱の中敷きに使われていた厚紙だったらしいが、ちょっと細工をすればそーゆー形になりそうな切り込みが最初から入っていたため、ムラムラっと模型制作に駆り立てられてしまったのだそうだ。

 そーゆーモノを送られてしまっては、やはりこちらも(剣心の)実物大容器を(だからナンの? なんて訊かないように)作らずにはいられない。元来わたしは好奇心と探究心と冒険心の旺盛な血液型B型であり、多少のことで動じるほど若くも青くも可愛くもないのだ。

 さっそく家中にあった筒状の物へ、かたっぱしから挿入をこころみた。おそらくその作業中、わたしの顔はとんでもなくニヤけていたことであろう。そして長さはともかく太さが一番ジャストフィットしたのは、ほかならぬ(ちょっと押しつぶして幅を広めた)トイレットペーパーの芯であった。以前から斎藤さんのアレの太さはトイレットペーパーの芯よりひとまわりふたまわり大きいくらいか、と密かに思っていたわたしの予想は、ひょんなところで他の人と意見の一致をみたのであった。

 しばらくのあいだ、その模型と台座は合体したままの形で机の上のオブジェとなった。実物をお見せできないのが残念である。





祝・失業


 じつはこの一年、親族が経営するリサイクルショップに『販売員』兼『専属占い師』として勤めていた。ほんらいなら先行きのよい商売であったのだが、いかんせん経営者の経営方針が非常に『おおらか』かつ『おおざっぱ』かつ『いいかげん』であったため、たったの一年で閉店の憂き目にあってしまった。それが、つい先ごろのことであり、つまり、わたしは失業したてなワケである。

 しかし、ほんとうに長い一年だった。当初の予定では、親族が総出で入れ替わり立ち代り販売や営業をバックアップし、わたしはパートとして週四日ほど販売員をつとめ、客よせの意味で昔とった杵柄の占い師もやる……ということだったのに、フタを開けてみれば店には誰ひとり寄りつかず、いきおいわたしと、わたしの六歳年下の姪とが仕入れも販売も営業も事務も経理も宣伝活動も、ついでに店内清掃までまかされてしまうという羽目におちいったのだ。この時点で、わたしたち二人も投げ出してしまえばよかったのだが、持って生まれた不器用さと、ささやかな責任感から投げ出すことができず、けっきょくは、この二人が最後まで店と付き合うこととなった。

 なにが大変だったかといって、店を開けつづけることがいちばんの苦痛だった。姪は夫も子供もいるふつーの主婦であり、いちにち店の面倒を見ているワケにはいかない。なので午前と午後とに分けて交替で出勤していたのだが、ほかに交替要員がいるワケでもなし、病欠でもしようものなら店を閉めなければならなかったのである。もちろん気楽に休業することもできず、病気になっているヒマもナイとはこのことであろう。

 おまけにナニが気に入って借りたのかは知らないが、店舗は町外れの人も通らない裏通りにあり、けれどもべらぼーに家賃が高くて、よしんば少々の利益が上がったところで、とても採算の合うものではなかった。ホントにねー、な~に考えてたんだろうなあ、まったく。

 崖っぷちどころかすでにして谷底という状態で、それでもけんめいに悪戦苦闘をつづけた。事実上オーナーそのもの、しかし何ひとつ決定権のない半ボランティア店員ではあったが、姪は家庭を、わたしは書くことと睡眠時間と日常生活を犠牲にして、できることは何でもやった。かててくわえて開店約ひと月後に、とつぜん姪が、なんの前ぶれもなく、さも当然のように、

「わたし、子供たちが夏休みだから、その間は出られないので(……ナゼ?)、KUMAちゃん、お店をお願いね」

と言い出したときも、ひそかに「そんなん聞いてねぇよぉ~」と理不尽に思いはしたが、そして、そのお約束は、またまた当然のように冬休み時期にも行使されたが、とにかく反論もせず不服も言わずに一人でも頑張った。この状態が、あともう半年もつづいたら、いや、もっと早い時期に過労死も免れまいと思えるくらいに自分を酷使した。事実ここ三ヶ月というもの、毎朝、数個の目覚し時計や携帯電話のアラームを枕もとで五分おきに鳴らしても、三十分は気がつかないほど疲労しきっていたのだ。

 そんなこんなで苦労の絶えない一年だったが、さすがにオーナーも積み重なっていく赤字に音を上げ、一周年を期に閉店を決意してくれた。苦労はしたが、それゆえに愛着が湧きつつあった店を閉店するのは、いささか寂しかったりもしたが、反面これほど失業するのが嬉しい仕事も他にはなかった。

 しかし喜ぶのは、まだ早かった。閉店するに当たって少しでも赤字を解消しようと閉店セールをやったが、そのセール期間の一ヶ月間と、店内のすべてを引き払い、後片付けをした最終日の一日、そして閉店後に待っていた経理上の残務処理が、過去の十一ヶ月間をぜんぶ足しても余るくらいに大変だったのだ。しかも、わたしの家には在庫として引き取った商品や、備品の詰まったダンボール箱が、いまだ山積み状態である。

 現在のところ、つぎの仕事は決まっていない。でもまあトシもトシだし、そうでなくても就職難ではあるし、再就職するのは難しいだろう。しばらくは占術と、友人が持って来てくれる内職で食いつなぎ、そのうちにインターネット上で、かねてからやりたかったジュエリーショップでも開こうかと思っている。もちろん書くほうも盛大に再開する予定なので、よろしかったらお付き合い願いたい。

 

 

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