オリジナル小説の断片を覚え書きしてみました。
管理人の古い友人たちです。
『水面の祈り』に登場した『黒衣の天女』が出てきます。
目隠し鬼と夜の魔女
美優が店を閉めて料飲ビルから出てきたのは午前一時を過ぎたころだった。 ビルを出たところで、すぐ横に立っている長身に金髪、黒いコートの若い男の姿が目に留まった。よく見ると、半同居人のウォルフだった。しばらく姿を見せなかったし、連絡もなかったので、どうしているのかと、そろそろ思っていた頃だった。 「どうしたの? こんなところで。ひょっとして待ってた?」 「ううん。いま来たとこ。店に上がろうかなぁと思ったんだけど、そろそろ店じまいかなって思ってたとこ」 ウォルフは美優を大きく見下ろさないように、少し腰をかがめて答えた。彼は二メートル近い大男だったが、気配を消すと、信じられないほど目立たなくなる。深夜とはいえ、繁華街の街灯は明々と照っていて、この背格好では黒いコートに身を包んでいても目立たないはずはないのだが、美優でなければ気づかなかったかもしれないほど、ひっそりと彼は佇んでいたのだ。 家で待っていれば、遅くなっても必ず帰ってくるものを、ここまで迎えに来たということは、またぞろ何か一人ではいられなくなるような出来事があったのだろう。 「それにしても、しばらく見なかったわね。どこかへ行っていたの?」 「ちょっとマリアナ海溝までね」 「そんな遠くに行っていたの。どこかに寄る?」 「ううん。帰ろうよ。あなたがよければ、だけど」 「かまわないわ。帰りましょう」 美優はウォルフをうながして往還に出た。 店から家までは、そう遠くない。ふだんは美優も歩いて行き帰りする距離だ。ときおり彼が飲みに来て、一緒に帰ることもあった。 飲み屋街を北方向に抜けて大通りを横切り、繁華街の反対側の地区へと向かう。大通りをはさんで反対側は住宅街になっていて、そちらがわには歓楽施設がない街作りになっている。その地区に、いくつか学校があるからだ。街の中心地であり、繁華街や歓楽街と通りひとつ隔てただけなのに、その地区は高級住宅街となっていて、深夜といえど治安は悪くなかった。 住宅地の地区に入ると、ゆっくり歩く二人の鼻先に、夜気にまぎれて甘い匂いが漂ってきた。近所の公園に咲く金木犀の花の匂いだ。このところ急に涼しく、日によっては寒さを感じさせる日が続いている。もう秋も深い。金木犀の匂いを楽しむのも、そろそろ終わりが近いだろう。そう思うと、美優は寄り道がしたくなった。 「いい匂い。ねえ、公園に寄って行かない?」 「うん、いいね」 美優と同じように大きく息を吸って花の香を堪能していたウォルフは答えた。
夜の公園は、街灯の明かりで、思ったより明るく照らされていた。大きい公園ではなかったが、いくつかの遊具と、何本かの桜の木、藤棚、そして金色の小さな花をいくつもつけた金木犀の大樹があった。 美優はベンチに腰掛けようとしたが、さきにウォルフが自分のコートを素早く脱いでベンチに敷いた。 「どうぞ、お姫さま」 「苦しゅうない」 軽く返してコートの上に座る。自分が座ってから、彼に隣に座るよう促した。そうしないと彼は、美優の足もとに、うやうやしく跪いたりするのだ。よく言えば、まるで女王と騎士のように。だがホストと客のように、あるいは飼い主と忠犬(それも超大型犬)のように、といった観があるのも否めない。深夜でもあり、人の目はないに等しかったが、できれば見られたくない光景なのだ。 ウォルフは美優に半身を向けた形で隣に腰掛けた。低いベンチではなかったが、彼が座ると大きく脚がはみ出してしまう。長い脚を窮屈そうに折り曲げ、彼はできるだけ自分のサイズを小さくして美優の隣におさまった。 「それで、なにかあったの?」 美優は横に座ったウォルフの目と思えるあたりを見て訊いた。彼は深夜にもかかわらず、真っ黒なサングラスをかけている。それは光を避けるためにかけているのではなく、彼の瞳の虹彩が人間の形と違うのを隠すためだった。彼は鬼なのだ。人の姿に変化していても、そこだけは変えられないらしい。 ウォルフはうつむいた。街灯の白い明かりの中で、彼の金髪は、いつもより濃い影に縁取られていた。彫りの深い顔にも濃い陰影が刷かれ、苦悩の大きさまで量れそうな影を帯びている。 「うん、あのね…」 長い沈黙のあと、彼は小さな声で言った。 「小さなエヴァルトが…小さかったエヴァルトが亡くなったんだ。七十五歳だったかな…」 「あなたにアレキサンドライト・キャッツアイをくれたひとね」 「そうだよ」 ウォルフは道端に視線を落としたまま、ささやくように言った。 「息子のヘルマンが、彼が危篤だって連絡してくれて、急いで駆けつけたんだ。やすらかな最期だったよ」 「そうだったの…」 エヴァルト氏の話を、かつて美優はウォルフから聞いたことがあった。ウォルフは第二次世界大戦の頃、ユダヤ人狩りに遭っていたユダヤの人たちを何家族か救ったことがあったらしい。 当時エヴァルトは小さな男の子で、戦争のストレスからか顔の表情というものを、いっさい失っていたのだという。だが秘密警察に連行されていたところをウォルフに助けられ、一家が逃れる手伝いをしたウォルフに、別れ際にエヴァルトは小さく笑って『バイバイ』と手を振ったのだそうだ。彼が恋をするには充分な理由だったのだろう。 その後、終戦後も、陰ながら彼らを見守っていたようだが、エヴァルトには正体を見破られ、けれど、それ以後も交流があったという話だった。 宝石商となったエヴァルト氏は後年、感謝の意を込めて一対のアレキサンドライト・キャッツアイに『エンジェル・アイズ』と名をつけウォルフに贈った。太陽光と人工灯の下で色変わりし、光を当てると中心に猫の目状に光の筋が入るというめずらしい石だった。ほんとうに猫の目ほどの大きさのその石はペンダントに加工され、今も彼の首にかけられたチェーン・ネックレスの先に下がっている。 「おれのことを天使だって言ってくれたのは…彼が初めてだった」 今にも泣きだしそうに彼は眉をひそめた。 「愛していたのね、そのひとを」 「うん…」 彼は人間なら誰でも無節操に見境なく愛するのだが、それは言わずにおいた。 ウォルフは鬼だが、人間が好きでたまらない鬼だ。一見は青年の姿をしているが、もう何百年も生きていて、この世界の終わりを看取る役目を背負っているのだという。人間は小さくてか弱くて儚くて、でも強くて逞しくて、とても愛しいのだと彼は言う。食べたら美味しいから好きというのとは違うらしい。 美優はウォルフの腕に手のひらで触れて、そっと撫でた。人間の姿に変化しているというのに、上着の上から触れても筋肉の流れがはっきり分かるほど逞しい腕だった。鬼の姿に戻れば、さらにおぞましく隆々と盛り上がる。頭に二本の角を持ち、人々の心の奥、恐怖の棲む場所にひそむ悪夢の形をしたもの。それが彼の真の姿だった。 彼の真実の姿を知って、それでもなお彼と交流を持つ者は多くない。エヴァルト氏は、その数少ない人間のうちの一人だったのだろう。特別に、特別な相手だったのだ。彼の言葉どおり、きっと何日ものあいだ、マリアナ海溝の深海に沈んで、激しく嘆き悲しみ、大量の涙をあふれさせ、海水の塩分濃度を薄めていたのに違いない。 ウォルフの腕を撫でていた手が、彼の大きな手のひらに包まれた。 「ねえ、美優さん、美優さんは死なないよね?」 ふいに強い口調で問いかけられ、美優はウォルフを見た。すがるような口調だった。街灯の投げかける淡い明かりの中、サングラスの奥の彼の目が猫のように光っている気がした。 「そうね。まだ、しばらくは大丈夫だと思うわ」 「ホントだね?」 「ええ」 「よかった…みんな先に死ぬから…みんなみんな先に死ぬから…おれは、いつも、どうしたらいいのか分からなくなるんだ」 ウォルフは美優の手を取り、指先に唇を押し当てた。唇は柔らかく、湿った吐息が冷えた指先に温かい。 「おれは無力だ。何もできない。何百年も生きることができても、深海や放射能の海で生きていけても、空が飛べても、人ひとり救うことができない…死ぬのを止められないんだ」 彼の大きな手は小刻みに震えている。巨人といえるほどスケールの大きな生きものなのに、内面のスケールは小ねずみと、さほど変わらない。彼の苦悩の深さは、人間には推し量ることもできないだろう。 「わたしだって、いつかは死ぬわよ」 ウォルフは音を立てて息を呑んだ。泣きそうな顔で美優を見る。 ───── ああもう。大きな図体をしているくせして、なんて手のかかる鬼だこと。 美優は、物柔らかな笑顔を浮かべてウォルフを見た。その昔は鶯鳴かせたこともある極上の微笑だ。 「でも、あなたは、わたしを看取ってくれるんでしょう? そうしてもらえるって分かっているのは嬉しいわ」 ふっとウォルフの手から力が抜ける。 「エヴァルトさんも、あなたに見送ってもらえて、きっと嬉しかったと思うわ」 「…そうかな」 「そうよ」 ウォルフは何も言わずに美優を抱きしめた。彼の大きな胸に抱かれると、いつも美優は安堵する。彼は孤独な大樹だ。たったひとりで何百年も、ゆるぎなく立っている。だが、ちょっとした傷も癒えずに、ずっと長く残っている。強いが繊細な巨木なのだ。 「あなたを愛しているわ、ウォルフ。そのまま変わらないでいてちょうだい」 すっぽりとウォルフの腕の中に包まれた美優は、彼の背に腕を回しながら言った。ウォルフは黙ったまま頷いた。 いずれ、自分が死んだときにも、彼は大きく嘆き悲しむだろう。その絶望の深さを思うと美優は恐ろしい。だが、同じくらい嬉しくもあった。 ───── いつか、わたしが死んだら、山を動かすほど悲しんで、海があふれるほど泣いてちょうだい。それが、わたしは嬉しいの。 ウォルフの絶望が深ければ深いほど、きっと美優の悦びは深くなる。自分が生きた軌跡が、彼の心に深い傷となって永遠に刻まれるのだ。そう思うと美優は恍惚となるのだった。彼女もまたウォルフに負けず劣らず人外の生きものなのだ。むしろウォルフよりも、おぞましい闇に馴染んでいる。自分が人々の厄災であることに彼女は誇りすら持っていた。彼と違って寿命があるのが、周囲の者にとっては幸いだったろう。 最期の瞬間に、きっと今日のことを思い出すだろうと美優は思う。金木犀の甘い香りと、ウォルフの腕に包まれて、至福を感じた日のことを。 |