クリスマス・イブの夜のお話。

『ハード・ボイルド』の設定でお読みください。


ハード・ボイルド  おまけ

 

 雨は夕方から雪に変わっていた。思わぬ天候の変化で高速は渋滞し、斎藤が剣心との待ち合わせ場所に着いたのは、約束の時間を一時間もまわった頃だった。

 坂の上の小さな教会。華やかなリースで飾られたドアは大きく開かれ、あたたかそうな光が庭先にまでこぼれている。その明るみから離れたフェンスの陰に、目当ての男は立っていた。

「緋村」

 ウインドゥをおろして呼びかけると、彼は真っ白い息を吐きながら車に駆け寄ってきた。

「待たせて悪かったな」

 助手席に乗り込んだ男はそれには答えず、黙ったまま乱暴にドアを閉めた。表情はいつものポーカーフェイスだが怒っているのは明白だった。

 無理もない。この気候に戸外で小一時間も待ちぼうけを食らったのだ。固く結ばれた唇からは血の気がうせている。車内の暖房で髪に降り積もっていた雪が解けはじめ、微細な水滴となって星屑のようにきらめいた。

「寒かっただろう。教会の中に入って待っていればよかったのに」

「おれが?」

 彼は険しい口調で答えた。

「馬鹿を言うな。おれはクリスチャンじゃない」

「軒(のき)を借りるくらいのことで目くじらを立てる神さまでもないさ」

「おどろきだな。神を信じているのか」

「いいや。あいにくと無神論者だ」

 答えながら斎藤は取りだした煙草に火をつけた。男は訝(いぶか)しげに眉をひそめたが反論するつもりはないようだった。

「さて。飯でも食いにいくか」

 ハンドルを握りなおしたところで男の手がそれを制した。

「もうすこし……見ていてもいいか?」

 彼は妙に不安そうな瞳で斎藤を見ていた。






「……すごいよな、クリスチャンって」

 とりどりの色にライトアップされた樅の木を瞳に映しながら彼は言った。

「キリスト教ってさ、神に愛されているっていう確信から初まる宗教なんだ。すごい自信家だと思わないか?」

「……なんでだ」

「……神と顔つき合わせて愛してるかどうか聞いたわけでもないのに、なんで愛されてるって思えるんだ。神は人間にとって親みたいなものだから? 親なら子供を愛して当たり前なんて、そんなの理由になるもんか。こどもを愛さない親なんていっぱいいる」

 憮然とした口調で彼はつづけた。だが、つよい憧れに満ちたまなざしが皮肉そうな物言いを裏切っている。

「おれには信じられない。なんの根拠もないのに愛されてるっていう自信をもてるやつらが……」

「自信とは違うんじゃないのか」

 煙草をもみ消そうとして、吸殻で山盛りになったアッシュトレイの隙間を探しながら斎藤は言った。

「たとえば顔つき合わせて『愛している』と言ってもらったとしても、相手を信じられるとは限らない。肝心なのは本人の『信じようとする力』なんじゃないのか。それが信仰ってものだろう」

「……そんなものかな」

「たぶんな」

 すこし傷ついたような表情で剣心は斎藤を見た。いつもの飄々(ひょうひょう)とした風情はなりをひそめ、おいてきぼりにされた子供さながらに頼りない面持ちをしている。

 ─────まいったな……。

 なにも、こんなところで宗教論を戦わせたかったわけではない。当初の予定では二人でミサを受け、それから食事へと連れ出すつもりだった。らしくない気弱さを見せられるのも予定外のことだった。

 教会ではミサが最高潮とみえ、賛美歌を合唱する声が外にまで漏れ聞こえていた。けっして巧みとはいえないものの、歌声は深い情感と真摯なやさしさに満ちている。

 しばらく賛美歌を聴いていた剣心は、ふいに唇を堅く引き結ぶと面をうつむけた。

「なんで……こんな日に、こんなところで待ち合わせなんか……」

「気に入らなかったか」

「あたりまえだ。わかっているくせに」

「わかっているから来たんじゃないか」

 斎藤の答えが腑に落ちなかったのだろう。彼は眉をひそめ、怪訝そうな眼で斎藤を睨んだ。

「あのな」

 乾きかけた髪に触れながら続ける。

「聖夜の伝説を知っているか」

「キリストの誕生日だろう。ほかに何がある」

「聖夜には、すべての罪びとが赦されるんだそうだ」

 つかの間、男の息が止まった。奇妙にこわばった表情が、つぎの瞬間には雪消(ゆきげ)を迎えた陽光のようにやわらいだ。

 ─────この顔が見たかった。

 がらにもなくミサを受けようと思い立ったのは、この一瞬のためだった。いまだ過去の罪科を忘れられず、罪の意識にさいなまれている剣心に、たとえ気休めに過ぎないとしても言ってやりたかったのだ。

 おまえの罪は赦される、と。

 剣心は一つ大きく息をつくと、髪をなでていた斎藤の手に頬をすり寄せてきた。指に触れた頬が熱かったのは、暖房のせいばかりではないだろう。

「そろそろ飯でも食いに行くか」

 無言でうなずく男の頬をもう一度なでてから、斎藤はアクセルを踏み込んだ。


 

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