こんな夢を見た。
卒塔婆小町 (そとばこまち)
……が、ひとおおぉつ……。 ……が、ふたああぁつ……。
───── こりゃあ、いったい……? ここは、いったい、どこなのか。どういうわけで自分は、ここにいるのか。どう考えても見当がつかない。 とりあえず立ち上がり、手まり歌が聞こえたと思える方向へ、彼は手探りで進んだ。喧嘩屋で鍛えた腕は、暴漢や強盗に恐れをなすほど『やわ』ではない。闇討ちだろうが、なんだろうが、殴られたら殴り返せばいいだけだ。 独りで闇をやりすごすには、いささかの不都合もなかったが、闇を縫って聞こえる歌声に、好奇心がうずく。 こんな、墨を流したような闇夜に、遊ぶ子どもがいるものか。話に聞く『もののけ』のたぐいか。あるいは以前に叩きのめしたことのある輩による手のこんだ意趣返しか。どちらにしても大した変わりはないだろう。腕を前に伸ばし、足先で地面を確かめながら、彼は歩みを進めた。 ふいに前方に、ぽう、と薄ぼんやりした灯りがともった。目をしばたかせながら遠目を利かせた佐之助は、その灯りの中に、異国の少女と思える姿を認めた。 いかに明治の世の中とはいえ、そうそう異人に出会うことはない。だが咲き誇る大輪の花のように裾の大きく開いたドレスと、灯りに透ける白っぽい髪や手足は、まちがいなく異国のものだ。脳裏をかすめた微かな違和感は、見慣れないものに対する畏怖の念から湧き起こったものだろう。 とりあえず声をかけてみようか、と彼は考える。少女が何者で、なぜ、こんな場所にいるのかはともかく、ひょっとしたら、なんらかの答えが得られるかもしれない。 佐之助が灯りの方向へ脚を踏み出したとき、少女に向かって、どこからか手まりが飛んできた。ふわり、とその胸におさまった手まりは、少女の小さな手には、少し余るほどの大きさである。しかし少女は、そんなことには構わず、ぽーん、と手まりを宙に放った。
卒塔婆が、ふたぁつ、無理心中。 卒塔婆が、みいっつ、ひとばしらぁ、人柱。
佐之助の首筋が、ぞおっと毛羽立つ。 だれが教えたのかは知らないが、ずいぶんと趣味の悪い唄だ。邪気のない透明な声音は、歌詞の意味を知らずに唄っているとしか思えない。自分でも説明できない衝動に駆られ、彼は少女に向かって駆け出していた。
卒塔婆が、いつぅつ、野たれ死に。 卒塔婆が、むっつぅ、さらしくびぃ、晒し首。
ことばを失って立ち尽くす佐之助に向かい、少女は優雅な動作で振り返った。その胸に抱かれた手まりからは、髪の毛が生えていた。
手脚の長い、だが、か細く華奢な子どもの躰の上に、端整な大人の女の顔が乗っている。抜けるように真っ白な肌と、おなじく白っぽい長い髪。甕のぞきの色を刷いた、表情のない瞳。 それだけなら、異人だからということで、さほど異質には感じなかったかもしれない。だが、その下の、まるで人でも喰らったかのような赤く濡れた唇は、どう見ても子どものものではなかった。いや、人の持つものではなかった。 少女は佐之助を上目遣いに見上げると、くすくす笑いながら、細い指先で、生首の髪を梳いた。冷たい汗が佐之助の背中を流れ、渇いた喉が焼けるように痛む。 棒を飲んだように立ちつくす佐之助を尻目に、少女は生首を玩弄しつづけた。両手に捧げ持って接吻をあたえたり、頬ずりしたり、胸に抱きしめたりしている。童女が人形遊びをするのと変わらない無邪気さだ。 ぞわ、と佐之助の背中を冷たいものが這いのぼった。いままで味わったことのない感覚が、手脚の先を冷たく痺れさせている。 ふたたび少女は首を宙高く放り投げた。無意識に佐之助は、それを目で追い、弧を描いて落ちてくる生首の顔を見た。 信じられないほどの衝撃が、彼を襲った。 「隊長!」 それは相楽総三の首だった。偽官軍の汚名を着せられ、斬首ののちに晒しものにされた、相楽総三の生首だったのである。 落ちてくる首を受け止めようとして伸ばした腕が、少女の飛翔する踏み台となった。あざやかなほどに少女は宙を舞い、空中で首を奪い取ると、軽やかに空を駆けた。 「待て! 待ちやがれ!」 佐之助は走った。腹の底から噴きあがる怒りが、彼を支配していた。どういうわけがあるのか、なぜそうなったのかは分からないが、これ以上の冒涜を許すわけにはいかない。なんとしても、あの、わけの分からないものの手から、かのひとを救い出さなければならない。 濃い闇の中、ときおり見え隠れする白い閃きを佐之助は追いつづけた。闇を縫って切れ切れに届く妖しい『くすくす笑い』が、彼を激しく苛立たせた。だが走っても走っても、あやかしの少女との距離は縮まらない。心の臓の鼓動が耳元で大音響を響かせ、噴き出す汗は彼の全身を濡らした。 とつぜん何かに脚をとられ、彼は、もんどりうって倒れた。急いで跳ね起きたが、その、わずかのあいだに、あやかしの白い影は消え去って、どこにも見えなくなっていた。 「……隊長」 佐之助の手の届かないところで翻弄される総三の首は、いやでも十年まえの無念を思い起こさせた。 総督府からの出頭命令を受け、「誤解を解いてくる」と言って、笑顔を見せながら出て行った総三。 あのとき、もっと深刻に事態を受け止め、必死で引き留めていれば、彼は死なずにすんだのではないか。彼が死んだのは、自分のせいではないかという想いが、長いあいだ佐之助を苦しめつづけた。 その苦しさから逃れるためなら何でもやった。喧嘩屋などという『やくざ』ななりわいに身を沈めたのも、そのためだ。自分を痛めつけ、相手を痛めつけ、それで束の間、うさを晴らすことができた。だが強くなればなるほど、罪悪感は深まるばかりだった。もし、あのときに、この強さがあったなら、総三をむざと死の淵に追いやることはしなかっただろう。けっきょく想いは、いつも同じ場所に戻ってくる。まるで閉じた輪の中で出口を求めて飛びつづける蛾のように。 ───── おれは……、なにひとつ出来なかった……なんの役にも立たなかったんだ。 胸底の奥深くに封じ込めていた想いが、怒涛のごとく打ち寄せる。まばたくと、こみあげた涙が頬に流れ落ちていった。 突然、佐之助の目の前に光の球が出現した。驚きに一歩あとずさると、光の中から、あやかしの少女が現れた。 少女は白い面に毒々しい微笑を浮かべながら、細い腕をすっと差し上げると、佐之助に向かって首を投げた。 ぽーん、と投げて寄越された生首を、飛びつくようにして受け止めた。咄嗟にではあったが、できるだけ衝撃をあたえないように、やわらかく受け止めたつもりだった。しかし、なにがしかの反動があったのだろう。手のひらで抱き取った首は、一瞬、切なげに眉を寄せた。 そして、その唇が、かすかに、震えながら開いた。 「……さの……」 衝撃で空気が漏れたのだ。きっとそうだ。そうでなければ狂う。気が狂う。 だが佐之助には、震える唇が、たしかに、そうつぶやいたように聴き取れた。 次の瞬間、彼の全身の細胞が激昂した。 「うおおおおおおおああああああっ!」 激昂が咆哮に変わる。息が止まるまで叫びつづけ、息を継いでは、また叫びつづけた。 ふっと笑みを見せる寸前、かすかに、切なげに眉を寄せる癖が総三にはあった。その笑顔がどれほど佐之助をひきつけたことだろう。子どもを相手に、大まじめで理想の王国を語る熱い口調が、どんなにか佐之助に希望をあたえたことだろう。 あこがれと敬愛と、無上の信頼。そんなものをあからさまにして、仔犬のようにまとわりつく無邪気な子どもだった佐之助に、さぞかし閉口したこともあったろうに、しかし、その背中は、一度も彼を拒絶したことはなかった。 どこまでも、このひとと行こう。 争いも、憎しみも、飢えも貧困もない夢の楽土が、目指す道の先には、きっとあった筈なのだ。それなのに、どこで何が違ってしまったのか。 だれが予想できただろう。弱き者のために戦っていたはずの者の中に、権力に取り憑かれた者があったなどと。 そして佐之助は、すべてを失った。 父であり、兄であり、師であり、生きる意味のすべてであった男を。 誰よりも大切な人が誇りを汚され、首を晒され、腐り崩れていくのをただ見ていることしかできなかった。無力で、無力で、非力な子どもだった。そのときから、おのれの生きる意味など、どこにも見出せなくなっていた。自分で自分が赦せなかった。 心の深いところに閉じ込めていた絶望が、憤りが、悲傷が、行き場を求めて佐之助の全身で荒れ狂う。振り絞るような叫びが、いつまでも、止めようもなく続き、やがて、激しい嗚咽に変わった。 「隊長……相楽隊長」 いとしい者の生首を抱いたまま、佐之助は号泣した。 強く、思慮深く、高潔な魂をもった総三を、卑劣な手段で貶め、踏みにじった維新政府が心の底から憎かった。だが、今なによりも赦せないのは、総三の首を弄んだ『異国の少女の姿をした何か』だ。 怒りが佐之助に喝を入れた。眼光に憤怒を宿して、彼は前方を睨んだ。 あやかしの少女は、まだ、そこに佇んでいた。血を塗ったような赤い唇は、奇妙な微笑の形に歪み、咽の奥から絞り出したような、まがまがしい含み笑いが、そこから漏れている。 「……てめえっ、なにもんだ」
卒塔婆が、やあっつ、斬られ死に。 卒塔婆が、ここのつ、ゆきだおれぇ、行き倒れ。 とおで、とうとう……、
佐之助は、あやかしに殴りかかった。ふわ、と少女は、まるで体重がないかのように軽々と浮き上がり、いともたやすく佐之助のこぶしを躱(かわ)した。片腕に生首を抱いているとはいえ、佐之助の動きから敏捷さは失われてはいない。しかし少女の素早さは、それを遥かに上回っていた。 こぶしが空を切るたびに、少女のドレスの裾が、白い花のつぼみが綻ぶように、ひらひらと舞う。
力任せに放ったこぶしが、ついに、あやかしを捕らえた。佐之助のこぶしは、あやかしの腹にのめり込み、耳障りな音を立てながら、背中へと突き抜けた。 あまりのことに佐之助は凍りついた。 少女は腹に佐之助の腕を深く呑み込んだまま、にちゃりと嗤った。
出し抜けに、あやかしは笑い始めた。恐れ、おののく佐之助を見るのが愉しくてたまらないとでもいうように、血しぶきを飛ばしながら、けたけたと笑う。けたたましい嘲笑は、しだいに、耳を聾さんばかりの狂笑へと変わっていった。躰を前後に揺さぶりながら、あやかしは激しく笑いつづけた。 驚愕が佐之助を狼狽させた。もはや闘志は消えうせ、彼は少女の腹から腕を抜こうと必死でもがいた。しかし、どれほど激しく振り回しても、あやかしを腕から振り払うことができない。 ふいに、ぱったりと狂笑が止んだ。 なにが起こったのか分からず、呆然と立ちつくす腕の先で、あやかしは力を失い、ぐんにゃりと溶け崩れて泥になった。泥土は佐之助の腕に、蛇のように絡みつき、まとわりつきながら、彼を地面へ引きずり込もうとした。 重い。肩が抜けそうなほど重い。だが引き込まれたら、どこに堕ちるのだろうか。純粋に恐怖を覚える。嫌悪に近い原始的な感情だった。息を荒げ、全身を汗で濡らしながら、佐之助は全力で腕を引いた。 たがいの力が拮抗した一瞬、泥は動きを止めた。そして、それは、にわかに形を取り始めた。佐之助の腕を取り巻いていた部分は、彼のそれより一回りほど小柄な、人の手になった。手の先に腕が伸び、腕には骨格の細そうな華奢な肩がつづき、その先に細い首筋と、薄い胸板が現れた。泥土から人間の姿が形作られているのだ。だが、それは先ほどの少女の姿ではなく、まったく別の人物のようだった。 やがて首の上に、やや尖り気味の顎が乗った。細かい造作が進み、そこに見憶えのある容貌が刻まれていく。きつい眼差しを持った目と、血を吸ったような赤い髪。筋肉の収縮によって、ぱっくりと左右に開いた頬の十字傷。 「人斬り………抜刀斎」 思わず漏らしたつぶやきに、男は凄絶な笑みで応えた。 佐之助は確信した。 およそ腐り水に蛆が涌くように、流血のある場所には、かならず、この『死に神』は涌くのだ。この維新志士が、腐り切った明治政府の片棒をかついだこの男が、相楽総三を死に追いやったのだ。 凄まじいまでの殺意で目がくらむのを佐之助は感じた。めまいに囚われる寸前、腕に抱いていた首が、なにごとか囁いたような気がしたが、気のせいだと思った。
佐之助は、のろのろと起き上がり、頭を掻いた。 ───── 夢…………だったのか。 やけに、なまなましい夢だった。色も、臭いも、感触も、まるで現実以上に現実のようだった。あんな不愉快な夢を見るのは久しぶりのことだ。目醒めた今でも、腕の中に首を抱いていた感触が残っている。 彼は身支度を手早く整えると、部屋の隅に立て掛けてある斬馬刀に手を伸ばした。喧嘩屋家業に明け暮れる佐之助の、唯一の相棒と呼べるものだ。もっとも、いままで、それを必要とするほどの相手と喧嘩したことはない。ごろまいて、いきがっているだけの雑魚どもには、過分すぎる得物なのである。 だが、比留間兄弟から依頼された喧嘩の相手なら、これを使うに足るだろう。その男を叩きのめすことで、明治政府に、一矢報いることができるだろう。敗北は許されない。完璧に勝利するためには、入念な準備が必要だ。 佐之助は、その男についての情報を集めるつもりだった。それには、男が名を馳せていた京都に出向くのが、いちばん手っ取り早いであろうと考えた。 「おれは、負けねぇ」 彼は独りごち、斬馬刀を元の場所に戻すと、建て付けの悪い障子戸を叩きつけるように横に開いた。
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