〈月下の紅薔薇館〉さんに寄稿させていただいた小説です。


契約

 

 長い裳裾をひく何者かの衣擦れの音が、しめやかに闇の回廊に響く。

 衣擦れとともに、闇よりもなお濃い闇の気配が、さざ波のように無人の回廊をたゆたい流れていく。

 深い闇が垂れ込める精神世界の回廊。その最奥には、堅牢な石造りの霊廟を模した一角がある。霊廟は暗く、石壁から滲み出す冷気が、そこここに澱みを作っている。部屋の主のために備えられた玉座も、ひんやりとした闇に馴染んで硬く冷たい。

 精神の闇の領域にある、訪なう者とてないはずの秘められた石室。なかば形骸と化した石造りの玉座に、その部屋の主である遊戯は、泰然と座していた。

 回廊から響く衣擦れは、遊戯の気配を追って、しだいに最奥の霊廟へと近づいてくる。ふと遊戯は長い睫毛に縁取られた切れ長の目を上げ、石室の扉を見た。

 闇がくる。

 飽くことのない飢餓を従え。

 屠りの贖いを求めて。

 濃厚な闇の気配の先触れは、すでに重厚な扉の下から霊廟へと忍び入り、遊戯の足下に禍々しく蟠っている。

 玉座についていた遊戯は、膝下にうずくまる闇を蹴り上げ、高々と脚を組んだ。

 蹴り散らされた闇は、束の間、室内を漂い流れたのちに、ふたたび遊戯の足下へと、まとわりついてきた。

 やがて。

 それらは流動体のような動きを見せながら、徐々に寄り集まって、ひとつの塊と化していった。

 遊戯の前に出現したのは、漆黒の魔術師だった。彼は玉座の前に跪き、昏い熱情に燃えるまなざしで遊戯を見上げた。

 わが主人(あるじ)よ ─────

 魔の手が伸ばされ、遊戯の足先に触れる。冷たい手のひらからは、全身が総毛立つような妖気が放たれている。

 彼は、遊戯の足をその手にとらえると、まるで愛の呪文を唱えるがごとく、おごそかに囁いた。

 われを贖いたまえ ─────

 ささやきは傾城の美姫の百の口づけよりも熱く甘い。

 われに御身をあたえたまえ ─────

 拒絶を知らない唇が遊戯の足先に接吻する。

 もちろん遊戯に拒むことはできない。

 それは約束された報酬。

 応えることができなければ、魔の主人たる資格はない。

 魔が主人に従うのは、魔が主人の物であると同時に、主人もまた魔の物であるがゆえなのだ。

 遊戯は意識の扉を固く閉ざした。もうひとりの、闇の深さを知らない自分には知られてはならない。自身の半身が、闇なる者と交わりをもつなど、人の身たる『もうひとりの自分』には堪えられないことだろう。

 形だけの拝謁を終えると、魔は遊戯の脚に深々と爪を立てた。長く鋭い爪が着衣を裂き、肌を裂いて肉に抉り入る。目のくらむような凄まじい苦痛に、遊戯は玉座の腕木をきつく掴みしめた。

 魔の抱擁は、むごく激しい。彼らが主人に持つのは、焦がれるほどの憧憬(しょうけい)と、主人を食いつくさんばかりの激情。遊戯は、自身を贄(にえ)とすることで、魔の独占欲を満たし、彼をより忠実な下僕とならしめることができるのだった。

 切り裂かれた傷口から鮮血がほとばしり、魔の顔を手を濡らす。主人の血に狂喜したのか、彼は嬉々として傷を咬み、血を汲もうとする。その目は陶酔に潤み、深い喜悦を示していた。

 魔の鋭利な爪と牙は、淫虐の印を刻みながら、あますところなく遊戯の躰を蹂躙していった。彼の凶器は、研ぎ澄まされたナイフのように、やすやすと肌を切り裂き、肉を穿つ。ときおり穿たれた肉の奥で、情交のような抽送が繰り返され、そのたびに遊戯は苦痛で喉を反り返らせた。

 肉体をもたない交わりでは、どれほどの苦痛が襲おうとも、意識を失うことはできない。遊戯は永遠とも思える長い時間を玉座に縫い止められ、身動きもできずに唇を噛んでいた。

 ふいに魔が顔を上げ、遊戯の顔を見据えた。彼は遊戯の口もとを見つめ、酷薄そうな唇を笑いの形にゆがめた。

 血が……。

 彼は遊戯の唇をなめ、やわらかく噛んだ。

 魔の歯と舌になぞられるたびに、チリチリとした痛みが走る。唇が切れていたことに遊戯は気づいた。

 御身の血は甘い。唇も ─────

 魔は思うさま遊戯の唇をむさぼり、深い口づけを繰り返した。

 闇の瘴気と、血の酸臭にみちた魔の唇を、遊戯も甘いと思う。

 この一瞬があるからこそ、闇の抱擁は、たとえようもなく甘いのだ。

 遊戯は黒衣の魔術師を抱き寄せ、ふたたび血塗られた快楽の中へと意識を投じた。

 

 

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