『電気仕掛けの竜』シリーズの続編です。

エドが十年で一つくらい年を取るという設定になっています。

前シリーズより三十五年後の西ドイツが舞台です。

設定が、これでもかとゆーぐらいにご都合です。

そーゆーの、苦手な方は、閲覧をご遠慮ください。


白銀の魔術師は 黄昏に微笑する  三

 




 数時間を経て、明け方が近くなってから、エドワードは意識を取り戻した。腕は解かれ、寝間着を着せられた状態で眠っていたのに気づき、可笑しくなった。ラングが身づくろいをしてくれたのだろう。あいかわらずの几帳面さだった。

 ラングは隣で眠っていた。エドワードはベッドで起き上がり、規則正しい寝息を聞きながら、常夜灯の淡い灯りに浮かぶ彼の顔を見つめた。

 ああ、このひとが好きだ、と心の底から思う。ほとんど真っ白になっている髪や髭も、煙草のにおいのする唇も、大きく骨ばった手も、何もかもが好きだ。

 彼には返しきれない恩がある。初めて出会ったときから彼はエドワードにやさしかった。深い関係になってからは、まるで恋人のように大切に扱ってくれた。

 今なら、その当時に彼が、自分の命をかけてエドワードの手助けをしてくれていたことも分かる。彼はエドワードを否定せず、認め、敬い、褒め称えてくれた。自分では価値が見出せなかったエドワードの人生に価値を見出し、親にすら与えられなかった何かを与えてくれたように思えたのだ。

 初めは、どいつもこいつも、みな同じだと思っていた。幼い頃から、エドワードは、たびたび性的虐待に遭っていた。男女の別なく、なぜか特定の嗜好を持つ者が、エドワードに興味を持つのだ。

 自分のどこが、そういった者を引き寄せるのかは分からなかった。武術を身につけ、自分の身を守れるようになるまで、それはずっと続いていた。

 だが、手足を失くした状態で、こちらの世界に来て以来、かつてと同じ厄災に見舞われるようになった。こちらの世界の義肢では、満足に抵抗もできなかったのである。

 彼らは熱心に、情熱的に、諦めず、じつに執拗にエドワードに纏いつき、懇願し、しまいには強引に、エドワードに関係を強いてきた。そして、その行為に悦びを見出せないエドワードに対して、『不感症』だの『丸太』だのと言い放つ者もいた。

 そういった経験ばかりが積み上げられ、元の世界に戻る道も見つからず、自暴自棄になっていた頃に、ラングとの出会いがあったのだ。

 彼との出会いは衝撃的だった。関係をもったのは彼に口説かれたのがきっかけだったが、口説かれたと思ったのは、じつは自分の勘違いだったと、のちに教えられた。けれど、それを知ったときには、もう後戻りできないほど彼に惹きつけられていた。

 あのとき ──── ウラニウム爆弾を探す旅に出ず、彼の元にいたら、今頃どうなっていたのだろう。考えても仕方がないと分かっていながら、考えずにはいられない。

 若い頃から老けて見えたラングは、歳を取った今では、逆に歳より若く見えた。とはいえ、認めたくはなかったが、やはり老いたな、と思う。うすぼんやりした灯りが、顔に刻まれた皺に濃い影を落としている。

 時間。

 自分に流れる時間と、周囲に流れる時間に差があると分かったのは、いつ頃だっただろう。知己が次々と年老いて去っていく。死に別れることもあれば、歳を取ることのないエドワードを気味悪がっての生き別れも少なくなかった。だからラングに会うのが怖かった。彼にまで拒絶されたら、きっともう生きていけないという自覚があった。

 けれど、やはりラングはエドワードを受け入れてくれた。拒絶されることを怖れていた自分が馬鹿らしくなるほど、あっさりと。

 こんなことなら、もっと早く会いに来ていればよかった。彼は幾つだ。もう晩年と言えるだろう。あと何年生きられるのか。三十年、いや二十年。そんなの、あっという間だ。

 どちらにしろエドワードは、かならずラングを喪うのだ。それも、そう遠くない未来に。自分は、いつもそうだった。失ってから、失ったものの大切さに気づくのだ。いつもいつも後悔ばかりだ。

 心が締め付けられるような悲しみに、エドワードは細く息を吐いた。それを聞きとがめたのか、ふいにラングは目を開いた。

「ごめん、起こした?」

「いや、歳を取ると眠りが浅くてね。いつも、この時刻に目が醒めるんだ」

 ラングの手がエドワードの頬を撫でる。そこで初めて、自分の頬が自覚なく流れた涙で濡れていたことにエドワードは気づいた。

「すまなかった。きみが消えてしまうような気がして、自分を抑えられなかった。……ひどいことをしたね。つらくなかったか?」

「違う……そんなんじゃ……」

 そんなことで泣いたわけじゃない。けれど、では、どんなわけだと聞かれたら答えられない。

 自覚してしまうと涙が止まらなくなった。

「おいで」

 腕を引き寄せられ、ラングの胸に顔を埋める。彼はエドワードの頭を撫で、指で髪を梳いた。

「きみは変わらないな。きみといると、つい自分が歳を取ったことを忘れてしまう」

「あんただって、変わってないよ。前より若いくらいだ」

「お気遣い、感謝するよ」

 咽の奥で彼は笑った。

「でも、きみほど長生きはできそうにない」

 やはり気づかれていた。それでも、認識させられるのは辛い。

「嫌だ……マブゼ」

「すまない、エド。わたしは、きみより先に死ぬ。順番といえば順番だし、それは今すぐではない。だが、きみの行くところは、わたしには遠すぎて、とても辿り着けそうもない」

「そんなこと……言うな」

「いや、言っておかねばならない。人は長く生きればいいというものではない。どう生きたかが大切なんだ。わたしは『良く』生きた。きみのおかげだ。そして人生という旅路の終わりに、またきみが来てくれた。きみが、わたしの最期を飾ってくれる。言うことはない」

 ラングの手がエドワードの頭や肩、背中を撫で、抱きしめてくる。胸に埋めていた顔を上げると、彼の目と視線が合った。その目には深い慈しみが感じられた。

「きみは生きるんだよ、エドワード。わたしよりも、だれよりも遠くまで。そして、わたしが見られなかった何かを見てきてほしいんだ」

「マブゼ……」

「とはいえ、とうぶん死ぬ気はないがね。まだまだ撮りたいものが、いっぱいある。きみとか」

 悪戯っぽい目で笑うと、ラングはエドワードの頬を軽くつついた。

「そんなもの、観たがるヤツが、いる気がしねぇよ」

「わたしが観たいんだよ」

「相変わらず頭が沸いてるな」

「映画人のロマンティシズムを舐めちゃいけない。なにしろ筋金入りだからね」

 くすくす笑いながら彼は言った。微笑する唇が愛しくてキスをすると、ふたたび彼の手が熱を持ってエドワードを抱きしめた。





 つぎに目醒めたときには、厚いカーテンの隙間からこぼれる陽射しが朝を告げていた。ラングはベッドにはいなかった。身支度をして階下の居間に下りると、彼も、ちょうど身支度を終えたところだった。ふたりで朝食を取り、食器を片付けているときに、彼は尋ねてきた。

「きみの、これからの予定は?」

「特には……あんたに会いたかっただけだから」

「そうか。では、一緒に撮影所に行くかね?」

「ううん。ホテルに荷物を置いてるから」

「じゃあ、荷物を取ってくるといい。ここを自分の家だと思って好きに使ってくれ」

 言いながら鍵を手渡してきた。素直に差し出した手を鍵ごとギュッと握られた。

「わたしは撮影所に行くよ。よかったら見においで」

 額にキスが降ってくる。

「うん、ありがと。あとで行くよ」

 ラングはドアに手をかけ、ついでのように振り向いて言った。

「ああ、そうだ。エド、いつか日本に行ってみないか?」

「日本に?」

「わたしは何度か行ったことがある。きみにヒロシマとナガサキを見せたいんだ」

 ヒロシマとナガサキ。

 もともと自分の世界から持ち込まれたウラニウム爆弾がモデルとなって原爆になった。原爆が彼の地にもたらした被害を考えるのは、エドワードにとっては苦痛でしかない。

 ラングの深意を計りかねて目を眇める。だが彼の目は明るかった。

「彼の地は力強く復興しようとしているよ。たしかに原爆は酷い爪あとを残したが、それに埋もれてしまうほど、ひとは、けっして弱くない。きみ一人の力で、どうにかできたなんて考えるのは、おこがましいことかもしれないよ」

 がん、と頭を殴られたようなショックがあった。

 たしかに、ウラニウム爆弾がなくても、いずれ原爆は作られたかもしれないと考えたことはあった。ただ、そう思うのは自己欺瞞だと思っていた。それを傲慢と考えたことはなかった。

 固まってしまったエドワードに、ラングは微笑みかけた。

「きみは最善を尽くした。それで、いいのじゃないか?」

 まただ、とエドワードは思う。何度このひとに価値観を引っくり返されたことだろう。いつも新しい価値観と可能性を示してくる。この世界で生きていていいのだと思わせてくれる。もう自分に素直になろう。オレは、このひとと共に生きていきたい。

 幸福感で胸がいっぱいになり、自然に笑みがこぼれた。ラングは眩しそうに目を細め、それからエドワードに手を差し伸べてきた。

「さあ、行こうか」

 差し出されたラングの手をエドワードは取った。開かれたドアの外には、新しい道が、どこまでも伸びていた。



 

 

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