2001年の夏に発行したコピー本です。

管理人は斎×剣のつもりで書いたんですが、

ドコをどう読んでもナゼか蒼×剣…。

でも蒼紫さまイイヒトなので、コレはコレで気に入っています。


孤影 (こえい)  一

 

「蒼紫」

 しめやかな闇を縫って届いたささやきに、蒼紫は夜具から身を起こした。

 うすく開かれた障子戸のすきまのむこう、居室によどむ闇よりも、なお暗い闇溜まりから静かに呼びかける声がする。

 ささやきだけ。

 人の気配はない。

 だが気配のないことで、逆に声の主の正体は知れる。

「すこし、つきあってはくれぬか」

 声の主は続けた。

 出歩くには遅く、かといって寝静まるにはまだ早い刻限である。

 蒼紫は床を離れ、夜着から夏用の単衣へと着替えた。

 帯を締めるときに、わざと鋭い衣擦れの音を響かせる。

 それだけで、呼びかけに応じようとするこちらの意は声の主に伝わるはずだった。

 身支度を整え、そっと障子戸を開く。

 そこはすでに無人である。

 しかし居室を抜け出て裏木戸へまわると、はたして闇のなかにおぼろな人影が佇んでいた。

 今夜は月もない。かすかな星あかりで白皙の頬がにじんだように浮かぶ。けれど頬に刻まれた深い傷痕までは星彩も照らせない。かげりを含んだ双眸に淡いかぎろいが揺れていた。

音もなく木戸が開かれ、人影は吸い込まれるように板戸の狭間に消えた。

 蒼紫は幽鬼さながらの影を追った。

 木戸を抜けると小路の先におぼろな背中が見えた。人影は蒼紫が歩み寄れば少し先へ進み、立ち止まれば立ち止まり、水先案内人のごとくに、つかず離れずの距離を保っている。

 ───── ついてこいということか。

 さそいかけるような背中にいざなわれて闇夜を歩く。

 細い路地から往還へ出ても、ほかに人通りはない。

 あるいは、と思う。

 彼は、この時刻になるのを待っていたのかもしれない。







 数刻後、蒼紫は居酒屋の二階にある座敷の一室に腰を落ち着けていた。蒼紫をここへ誘い込んだ男は、しかし何を話しするでもなく手酌で酒を呑んでいる。

 何度か酒を勧められ、そのたびに断ってはいたが、さすがに断り続けるのも面倒になってきたので先ほどから酌を受けるようになった。もちろん呑むふりをしながら袖に忍ばせた手ぬぐいで受け、一滴も口にはしていない。

 下戸は忍の身上である。酒に酔って判断をあやまるようでは命が幾つあっても足らなくなる。いまでは時代が変わり身の上も変わったとはいえ、そうそう簡単に変えられる習慣ではなかった。

 男は顔色ひとつ変えずに盃を干している。その小柄な躰のどこにそれだけの酒が納まっているのか、もうずいぶんな量を飲み下している。見かけによらず大層な酒豪であると聞いてはいたが、いざ実態を目のあたりにしても、にわかには信じがたいものがあった。

「強いな。酔うことはないのか」

 内心の驚嘆を隠さずに言った。

 男は、それまで伏せていた目線を上げて蒼紫を見つめた。

「ああ。だが自慢にはならぬよ。せめて微酔いにでもならねば呑んでいる意味がない。それに…」

 飄とした掴みどころのないない面持ちが自嘲気味にゆがむ。

「酒を美味いと思ったことは一度もない」

 たしかに、それはそうなのだろう。盃を干すたびに、かすかに寄せられる眉根は、内心の歓喜を示すものではなさそうに見える。

「酒呑みにも、いろいろあるんだな」

「そうだな。拙者の師は風雅な酒を好む。佐之助は自分も周囲の者も楽しく酔わせる酒だ。弥彦は絡み酒だが、すぐに潰れてくれるので面倒がなくていい。…そういえば斎藤とは盃を交わしたことがなかった。いちどは酌み交わしてみたい相手だったな」

 斎藤の名を口の端にのぼらせたとき、彼の目は懐かしむような、いとおしむような色をにじませた。

「いまとなっては望むべくもないが…」

 微笑が哀しげに翳る。

 ああ、と蒼紫は思った。

 ───── おれは壬生狼の身代わりか。

 ふたりにまつわる因縁と確執。そして執着。

 何人たりとも立ち入ることのできない深い絆。

 内心、それとは察していたものの、いざ事実を鼻先に突きつけられると奇妙な苛立ちを覚える。どれほど信頼を分かち合う間柄になったとしても、このふたりのあいだにあっては蒼紫は未だ蚊帳の外なのだ。

「誘ってみたらどうだ」

 これは厭味だ、と言いながら思う。感情は抑えているつもりだったが、たちのぼる酒の匂いに当てられて、いつもの冷静さを欠いているのかもしれない。

「死に別れたわけでもあるまいし、誘えば酒くらい付き合ってくれるだろう」

「いや。…そんな馴れ合いを許す男ではないよ」

「やけに詳しいんだな」

 剣心は一瞬、怪訝そうに眉をひそめた。ついで彼は、くすくすと忍び笑いをもらした。

「拙者が斎藤の話をすると、そんなにも妬けるか?」

 咽の奥で笑いながら彼は言った。

 認めたくはなかったが、ある意味『図星』である。的を射ているだけに腹立ちも大きい。

「下種(げす)の勘繰りだ」

「そうとも。拙者は下種だ」

 抑えられた忍び笑いが、しだいに癇性めいた嬌笑へと変わっていく。彼は長いこと笑いつづけ、やがて苦しげに腹をかかえてその場に寝転がった。

「だから斎藤にも愛想をつかされた」

 自嘲とも侮蔑ともとれる口調で彼はつぶやいた。

 

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