孤影 二
雪代縁との一件が終わり日々の暮らしが平穏に戻ったころ、剣心の剣客生命が、もってあと数年であろうという医師の見立てがなされた。つねに術者に凄まじいまでの極限を求める古流剣術、飛天御剣流。その術者となるには彼の小柄な体躯では役者不足だったのだという。 信じられなかったし、また信じたくなかった。 伝説に謡われ最強と呼ばれた剣士。 あれほど蒼紫を心酔させた術者が、伝説の中でのみ生きる過去の遺物となるのだ。蒼紫も含めて周囲の者たちの驚きと落胆は一通りではなかった。 だが不思議なことに当の本人は、さほど動揺したふうでもなかった。その日の午後も彼は普段と変わらない飄々とした態で蒼紫の居室に顔を出した。 「決着をつけてこようと思う」 まるで、これから情人との逢い引きに向かうとでもいうような浮き立つ口調で彼は言った。剣士として最良の状態でいられるうちに決着をつけたい相手がいるのだとも言った。 「壬生狼か?」 「壬生狼だ」 警官と流浪人としてではなく、壬生狼と維新志士として。 あるいは剣に生きるものとして。 蒼紫が剣心との決着をつけることで自身の幕末を終えたように、彼もまた長かった自身の幕末を斎藤との決着で終えるつもりなのだと察した。 もちろん死も覚悟の上であったろう。 否。 むしろ安寧と平安のなかでゆるやかに朽ちていくより剣士らしく討ち死にすることを望んでいたのではあるまいか。 剣心から最後の、そして最高の好敵手に選ばれた斎藤に対して、一種のねたましさを覚えはしたが、ふたりの剣技をだれよりもよく知る身であれば反駁(はんばく)できよう筈もなかった。 しかし家人の誰にも告げなかった出立を蒼紫にだけ明かしていったのは、やはり絶大な信頼ゆえだということも分かっていた。もし自分が生きて帰らなかったら、あとを頼むということなのだ。それもひとつの表敬の形であり、心酔する相手から選ばれ、そんな形でも頼られた事実は嬉しかった。 ところが彼は何事もなかった様子で翌朝に帰宅した。態度は普段と変わらないものの、出立のときの嬉々とした面持ちを知っている蒼紫には不審に思えた。首尾を聞けば『愛想をつかされた』と答え、その一瞬だけ寂しそうに笑う。万感の想いを抱いて赴いた約束の地に、ついに斎藤は姿を見せなかったというのである。
「蒼紫、…慰めてはくれぬのか」 濡れた、だが棘を含んだ声音。 「以前おぬしが迷ったとき、拙者は手を差し伸べてやったというのに」 どこか投げやりなしぐさで蒼紫を手招く。 ───── どうかしている…。 蒼紫の知る剣心は、こんな恩着せがましい口をきく男ではなかった。ましてや場末の遊女よろしく、あけすけな手管で情けを乞う男でもなかった。なにが彼をそうさせたのか。いや『なにが』ではなく『だれが』であろう。もちろん問うまでもないことだった。 ざわ、と背筋に異様な戦慄が走る。蒼紫は剣心から視線をそらした。いたたまれなさに座を立つ。これ以上、醜態をさらされるのは堪えられない。 ちがう。 ほかの男に焦がれて乱れるさまを見たくないのだ。 「おれは…帰らせてもらう」 「酔ったのか、蒼紫。一滴も呑んではおらぬくせに」 「…知って、すすめていたのか」 「下種のすることだ。さほど苛立つものでもあるまい」 「きさまっ!」 とっさに噴きあがった怒りにまかせて男の胸ぐらをつかみ、その躰を引き起こした。たがいの鼻先が触れるほどに引き寄せ睨みすえる。 「くだらない揚げ足をとるな」 「愛想がつきたか」 「な…にっ」 「おまえも愛想をつかせばいい」 剣心の瞳に剣呑な光が走る。彼は甲高い嬌笑を放った。傷ましく悲痛な狂笑だった。 蒼紫には為す術はなかった。これ以上かけてやる言葉も考えつかなかった。なんとかしてやりたいとは思う。だが、なにをどうしたところで彼の望みをかなえることはできない。 苛立ちがある。言いようのない、そしてやり場のない苛立ちだった。 つかんでいた襟元を突き放し、男の躰を放り出す。放り出された男はうずくまった姿勢で、なおも笑いつづけている。しばらく蒼紫は呆然と突っ立ったまま、ただいつまでも続く嬌笑を聞いていた。 やがて笑い疲れたのか、それは次第に細く弱まっていき、ふいに止まった。息の根が急に止まったのかと思えるほど唐突だった。 室内に完全な静寂が流れる。自分の心臓の鼓動だけが蒼紫の耳に大きく響く。 「…緋村?」 蒼紫は、つい心配になって剣心の肩に手をかけた。すこし上向かせると、乱れた長い髪に隠されていた面があらわになった。そこで初めて、いままで嬌笑だと思っていたものが、じつは嗚咽につづくものであったことを蒼紫は知る。彼はうつぶせたまま声を殺して泣いていたのである。 「悪かった、引き止めて…」 「緋村…」 「見苦しいところを…見せた。…すまなかった」 いく筋もの涙が乱れた髪に吸い込まれていく。 「もう…行ってくれ」 蚊の鳴くような声でつぶやくと、剣心は面を伏せた。しかし口先では拒んでみせても、肩に置かれた蒼紫の手を払おうとはしなかった。 ───── そんなにも…壬生狼が…。 恋しいのかと思う。 傷ましいまでの人恋しさを全身に滲ませて。 余人にはけっして見せないであろう醜態を抑えきれずにさらしてしまうほどに。 蒼紫は剣心の腕に手をかけ、躰をそっと仰向けにさせた。何かしないではいられなかった。指先で頬をなで、まなじりの涙をぬぐう。閉じられた目蓋に唇を落とすと、彼は細く長い息を吐いた。交わした唇は酒の甘い名残と涙の味がした。 |
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