孤影  三

 

 行灯の灯を落とした室内は、戸外よりもなお深い闇に沈んでいる。闇溜まりの底には夜目をもあざむく白皙の裸形がぼんやりと浮かび上がっている。ときおり闇を縫って濡れた吐息がこぼれ、そのたびに水底の魚さながらに細い首がしなう。

 はじめて触れた剣心の躰は蒼紫が思っていたよりも、さらに小柄で華奢なものだった。しかし脆弱に細いのではない。名工の手になる陶磁器のように皙くなめらかな肌の下には必要最小限に引き絞られた筋肉が形よく束ねられ、美しい造形を表面に打ち出している。

 ところどころに不似合いな『おうとつ』があるのは傷痕だろう。暗闇のなかでは目にできなくても、あきらかに刀傷と分かる傷痕や火傷の痕は、指先でそれと察することができた。いくつかは蒼紫も知るものであり、ほかならぬ蒼紫自身が刻みつけたものもあった。

 この強靭な肢体が、あと数年で内部から朽ち果てるとは未だに信じられない思いだった。もし自分の躰が彼と同じ運命に見舞われたとしたら、どんな心地がするだろうか。老い枯れてからなら諦めもつこうが、けっしてそうではないのだ。

 蒼紫は剣心を惜しんだ。肌を撫でさすり、唇で喰み、抱きしめてはいとおしんだ。甘い吐息に誘われて唇を重ね、うながされて躰をひとつにつなぐ。けれど、どれほど躰を満たしても心まで満たすことはできない。それが分かっていながら、ほかにどうすることもできない。こんなことでしか盟友に慰撫をあたえられない自分が情けなくもあった。

「蒼紫、もっと…」

 酷くしてくれと言外に匂わせる。

 忘れたいのだ、ひとときでも。

 自身の命運をか。

 それとも。

 反らされた背中に腕をまわし、小さな躰をすくいあげて膝の上に乗せた。みずからの体重でより深く深部を穿たれ、男の咽から苦しげなうめきが漏れる。

「あぁ…、蒼紫…」

「つらいか」

「いや、悦…い。もっと…」

 耳もとで濡れた声音がささやく。だが、ふしぎに猥りがわしさは感じられない。媚すらも。頑是ない子どものように、あるいは手負いの獣のように、ただ自身の空虚さを埋めることしか頭にないのだろう。

 唇を交わし、うっすらと汗の浮いた背中を抱きしめ、たがいの胸を合わせるようにして揺すり上げる。心はどうであれ躰の高揚は忠実に反応を返す。あえぎに変わる息と、すがるものを求めて蒼紫の背に立てられる指が、なによりも雄弁にそれを語っている。

「あおし…」

 愛しげに名を呼ぶ。だが蒼紫は知っている。剣心の目が閉ざされたままであることを。

 闇にあっても人の目は意外に光る。どこかしらにある光源を反射するのだ。しかし剣心の面差しには、これまで一度も閃くものがなかった。闇にあってなお、鼻先の事実に目をつぶるかのように。

 彼が口にする名は蒼紫であって蒼紫に向けられたものではない。彼が内心で呼びかけている名が誰のものであるかは容易に聞き取れる気がした。

 ───── おれでは…だめなのか。

 咽まで出かかった言葉を呑み込む。答えは問う前から分かっている。

 だからこそ何も言えない。

 ただ労わりの意をこめて細い肩を抱く。

 せめて、ひとときだけでも酒が見せる夢のなかで互いの幻影に酔えればいい。

 昏い熱情のさなかに、一瞬だけ蒼紫は剣心の頬に閃きが走るのを見た。ふりこぼされた涙のきらめきだった。







 数日後、翌日帰郷する旨を告げた夕刻に、蒼紫の居室を茶盆を捧げ持った剣心が訪ねてきた。

「約束したろう」

 いくぶんか悪戯っぽい目をしてつづける。

「もっとも、この家には道具も部屋もないので、正式な茶の湯というわけにはいかぬが…」

「べつに構わん。つきあおう」

 誘われるままに剣心の居室になっている離れ座敷まで出向き、茶盆をはさんで向かい合わせに座した。

 座敷の障子戸は中庭に向かって大きく開かれ、戸外から冷涼な風がかすかに吹き込んでくる。庭木や草むらの陰からは涼やかな虫の音がちらほらと聞かれ、はや初秋の風情を匂わせていた。

「我流で失礼する」

 笑みを含んだ声で言い、剣心は茶筒を手に取った。番茶ごときに流儀もなにもあったものではないが、手際よく茶を淹れる姿には一種の優雅さがある。そこには先日の乱れは欠けらも見られない。

 淹れられた茶を前に、とりたてて話すこともなく、ぽつぽつと思い出したように短い会話が交わされた。けっして気まずいものではなかったが、どこか薄衣でへだてられたような曖昧さがたゆたっている。

 夢幻の一夜が明けた翌日には、剣心はいつもの自分を取り戻していた。それ以後、なにごともなかったように穏やかな日々を淡々とすごしている。蒼紫もまた、あの日のことには触れなかった。それは互いの胸の裡にのみ秘められた暗黙の了解となっていた。

 おそらくは、この先もう二度と彼が乱れることはないのだろう。だれかに本心を吐露することも。彼があの日を境に、すべてのできごとに自分なりの折り合いをつけてしまったらしいことは想像にかたくない。

 それでも蒼紫の目には、やわらかな微笑の陰に、あの日の孤影が重なる。

 絶望と孤独に我を失った魂の血を吐くような慟哭が映る。

 傷ましい、と蒼紫は思う。

 生きる目的を失った空の器にすぎない剣心も、そして、これほどまでに望む相手から、けっして求められることのない自分自身も。

 ふと目線を上げた蒼紫は、とうとつに剣心と目が合った。やさしげな視線の奥には読み取りようのない深淵がひそんでいる。何ものをも愛さず、何ものをも求めない、深く昏い淵が。

 こんなにもすぐそばにいるというのに、彼の気配はあまりに遠い。

 どこまでも、つれない情人。

 そう思いながら蒼紫は芳ばしく香り立つ茶を口に運んだ。

 

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