もとは贈呈用に作った限定三部発行のコピー本です。
張がお嫌いな方は閲覧をご遠慮ください。
臥待月 (ふしまちづき) 一
暦の上では秋だとはいえ、九月に入ったばかりの気候は、三夏(さんか)のころと変わりがない。陽射しの強い日中は盛夏の気配をたたえ、まだまだ暑い日々がつづくことを告げている。 商家が軒を連ねる大通りを沢下条張は歩いていた。ただ歩いているのではない。ひとりの男を尾行していたのである。 目当ての人物は短身痩躯で赤みのかかった髪をしている。小柄ではあっても特徴のある人相風体をしているため、そうそう人波にまぎれることはないように思われるのだが、気がつくと見失っていることもたびたびだった。そこには誰もいないとでも言いたげに、ひっそりと気配を忍ばせる技は、さすがに幕末の京都で激動の時代を生き抜いた一流の剣士であることをうかがわせた。 男は飄々と歩きながら、ときおり商家の暖簾をくぐった。なにやら注文でもしているのだろう。それにしては出てくるときにも身軽な手ぶらであった。あとで取りに戻るのか、それとも配達を頼んだのかは分からない。もっとも、張が知りたいのは、そんなことではなかった。 秋晴れの午後。永日の陽射しは熱く照りつけ、地面からも熱気を立ち上らせている。咽の渇きを覚えて張は蕎麦屋の暖簾にちらりと目線を泳がせた。視線をもとに戻したときには男の姿は消えていた。 あわてて人波を掻き分け、小走りに前に出た。さきほど彼が立っていたあたりの商家の内部をのぞき見る。薄暗い店内には彼の姿はなかった。 ───── あちゃあ、またや。 あれほど目立つ容貌をしているのに、煙のごとく忽然と消え失せてしまう。 そういえば張の上司にあたる男も、そういう技の大家であった。見上げるような長身でありながら、ひとたび気配を殺せば、影のように周囲の風景へ溶け込んでしまうのである。彼も同じく幕末の京都で名を馳せた剛の者であったというが、動乱の時代が彼らの剣腕を磨いたということなのだろうか。かなわない、と思う。 ため息をつきながら張は踵を返した。 目の前に小柄な男が立っていた。 「わっ!」 心底おどろいて声をあげた。 剣の腕には多少の覚えがある。むしろ人並み以上に剣術には通じているつもりだった。なのに背後を取られていたことに少しも気づかなかった。 「色気のない反応でござるな」 「なんや、気づいとったんか」 「あれだけ、あからさまな気配を発すれば、拙者でなくとも気づくでござろう」 やわらかく微笑しながら男は答えた。 気配は潜めていたつもりだったが、どうやら彼には通用しなかったらしい。なにしろ相手が悪かった。 「で、また今日も口説くつもりか?」 彼は笑いながらつづけた。赤みのかかった髪が陽射しを弾いて煌めいた。
二人して蕎麦屋に入り、座卓につくと酒を注文した。 「こんな時刻に酒とは」 「ええやん。いっぺんあんたのこと酔わせてみたかったんや。ワイの奢りやよってに好きなだけ呑んだってェや」 「酔ったはずみを期待しても無駄でござるよ」 うわばみだという話は斎藤から聞いていた。都合よく酔いつぶれてくれるわけがないと頭では分かってもいた。けれど、やはり半分以上は図星である。 薄暗い店内には、ほかに客の入りもなく、刀を帯びた二人の男に不審の目を向ける者はない。他愛ない話を交わし、酒肴をつつきながら盃をかさねる。くちもとに盃をはこぶ剣心の袖口から皙い手首がちらちらと覗く。ほの暗い室内にあって目を射るような艶めかしさだった。 「なあ、上の座敷に行かん?」 いくぶんか酔いのまわってきたところで誘う。拒まれるのは承知の上だ。 ふわり、と彼は微笑んだ。 「おぬしも懲りない男だな」 「ソコがワイのエエトコやんか。可愛い思わへん?」 「可愛い可愛い」 目が笑っている。本気でないことは明らかだ。 「さて」 言いながら剣心は席を立った。 「拙者は、そろそろお暇しよう」 「もう帰るんか。いま来たばっかりやで」 「家で可愛い子どもらが待っておるのでな」 彼は引き止める張の手をするりと躱し、あざやかな身のこなしで戸口のそばに立った。 「馳走になった」 一瞬で手の届かない距離に身を置かれては、それこそ手も足も出ない。張は躱されてしまった腕を上げ、顔の横で手のひらをひらひらさせた。 「また、つきおうたってや。こんどは、しっぽりいきたいもんやな」 「遠慮するでござるよ」 そういい残して剣心は戸外の逆光の中に姿を消した。 ───── あきらめへんで。 張は銚子に残った酒で盃を満たし、一息にあおった。 |
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