臥待月 (ふしまちづき) 二
───── おかしな男だ。 雑踏の混雑を縫って歩きながら剣心は思う。 京都から東京へと戻ってきてすぐのことだった。ある日、庭先に忽然と現れた張から人目も憚らず熱っぽい口調で恋情を告白されたのである。と、いっても薫と弥彦は出稽古に出ていたので、庭木と、洗っていた洗濯物よりほかに、それを聞きとがめたものもなかったのであるが。 はじめは何か企んでいるのかと思い、つぎには冗談でからかっているのかと思った。しかし日をおってくるに、どうやら本気のようだと気づいた。 ───── なにを好き好んで拙者なぞに懸想したものやら。 女の身ではなく、ましてや見目麗しい美童でもない自分のどこに彼は惹かれたというのだろう。物好きにも、ほどがあろうというものだ。 最初から、その道が好きだったわけではないという。かといって女色に飢えているのでもないらしい。 たしかに一見は奇抜で異色な変わり者だが、気性は実にさっぱりとしていて心遣いも細やかな男なのだ。おそらくは、もともと生まれや育ちがいいのだろう。底抜けな明るさには憎めないものがあり、うるさくつきまとわれていても不思議と不愉快な気分にはならなかった。 そうでなければ、多少乱暴な手段を使ってでも、とうのむかしに手ひどく拒絶していたことだろう。そんな彼ならば、言い寄る女に不自由するとは思えなかった。 とはいえ、剣心にもその気はない。若い頃には、それなりに艶深い経験もあったし、惚れたはれたに男女の別はないとも思ってはいるが、もともと艶めいた感情が希薄な性質だったのだ。とくに妻を喪ってからというもの、恋情に心を動かされたことは一度もなかった。 ───── まあ、そのうちに熱も冷めよう。 背後に張の気配はない。今日のところは引き下がってくれたようだ。 一息ついて酒気を払い、剣心は先ほど訪ねた商家の暖簾をもう一度くぐった。
剣心は人通りの賑やかな往還をひとり歩いていた。とりたてて用があったわけではない。ただ、なんとなく出歩いてみたかったのだ。 張と酒を酌み交わして以来、ぱったりと彼の来訪がなくなっている。当初は仕事が立て込んでいるのだろうと、さほど気にも留めなかったのだが、彼が顔を見せなくなって十日も過ぎた頃から妙な物寂しさを覚えるようになった。 あれだけ熱心に掻き口説いていたものが、あっさりと心変わりをしたのだろうか。それとも息つく暇もないほど仕事に追われて駆けずりまわってでもいるのだろうか。それならそれで構わないはずなのに、物足りなさが胸を波立たせる。あてもなく街中を彷徨してしまうほどに。 だいたい連絡を取ろうにも居場所が分からない。勤勉に警視局へ出勤する巡査たちとは彼は立場が違うのだ。それに、いつでも向こうから姿を現わしていたせいもあって、剣心は彼がどこに住んでいるのか考えたことも尋ねたこともなかった。 気がつくと剣心は鍛冶橋の近くまで来ていた。堀の向こうには警視局の建物があった。 剣心の脳裡に、ひとりの男の顔が浮かんだ。 ───── あいつに訊けば知れようか。 なぜか足早に剣心は堀を渡った。 |
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