臥待月 (ふしまちづき)  三

 

 だれかに呼びかけられたような気がして張は目醒めた。熱のせいで霞んだ視界に引き回してあるカーテンが映る。

 ───── 夢か…。

 カーテンの白さが眩しくて張はふたたび目を閉じた。室温が高いのか、それとも全身をほぼ隙間なく覆う包帯のせいなのか。布の下に不快な熱がわだかまっている。眼球が頭蓋の奥から発する熱気で茹でられているように熱く、口の中には粘つく唾液が溜まっていた。

 警視病院の一室。ここに張が運び込まれたのは一週間ほど前のことだった。ある政治家がかかわっているという麻薬取り引きを捜査するため、目星をつけていた人物を内偵していたのだが、運悪く内部抗争にまきこまれ、不覚にも斬殺されかけたのである。

 五日間は意識のないまま眠りつづけ、一命をとりとめて意識を回復した今も、なかなか熱が下がらない。日がな一日、熱に浮かされて、うつらうつらするのを繰り返していた。

 ふいに冷たいものが張の額に置かれた。心地よさに沈みそうな意識を懸命に呼び戻して目蓋を開く。何度か瞬いて焦点を合わせ、そこに剣心の姿があることを張は認めた。

 ───── なんや。まだ夢を見とるんか。

 熱に浮かされている間中、張は剣心の夢を見ていた。現実とは違い、夢寐での彼は張の望むままに振る舞い、どんな要望にも応えてくれた。なにせ死にかけたのだ。せめて夢の中には、それくらいの余禄があってもいいだろう。

「なあ、接吻しよ」

 夢の世界の気安さで張は甘えた。剣心は小さく笑うと、濡れた手ぬぐいで額や首筋をぬぐってくれた。

「…まったく」

 困ったように眉をひそめながら言う。

「それだけ元気なら心配いらないでござるな」

 とたんに張は、はっきりと目が醒めた。

「ほ、ホンマモンかいな」

 思わず跳ね起きようとして、あまりの痛みに目がくらみ、張は、もういちど寝台に深く沈み込んだ。







「斎藤に訊いたのでござるよ」

 花もなびかんばかりの微笑をたたえて剣心は言った。

「報せてくれていたら、もっと早くに見舞ったものを」

 口調には、かすかに詰る色合いが含まれている。水くさいとでも言いたいのだろうか。

「そら無理や。目ェ醒めたんは昨日やで」

 なつかしい顔を見上げて張は答えた。最後に顔を合わせた日から半月ほどしか経っていないのに、もう何年も会ってなかったような気がする。夢にまで見ていた想い人の来訪で、しかも、わざわざ彼のほうから労をとって訪ねてきてくれたのだ。ぶざまに臥せた姿を見られるのは、きまりが悪かったが、有頂天になるのも無理からぬことだったろう。

 それからの数日間、剣心は毎日張を見舞い、なにくれとなく世話をやいた。食事のときには重湯を口に運んでくれ、熱が高いあいだは濡れた手ぬぐいで額を冷やしてくれた。一日に一度、看護士が包帯を取り替えにくるたびに、着ている物を脱がせて躰を拭いてまでくれる。介護する手つきは看護士でさえ感心するほどの手際のよさだった。

 はじめは剣心の看護を無邪気に喜んでいた張だったが、時が経つにつれて、しだいに複雑な心境をいだくようになった。

 たしかに剣心が世話をやいてくれるのは嬉しい。痒いところに手が届く細やかな介護にも十二分に満足している。だが堪えられないことが一つあった。躰を拭かれることだ。

 寝台のまわりにはカーテンを引き回してあるので、他人に肌を見られることはない。そうでなくても女ではないし、見られて困るほどのこともなかったが、清拭のたびに性器が勃起するのだ。いや、勃起するのが堪えられないのではない。それを剣心に見て見ぬふりをされることが辛かったのだ。

 剣心への恋情を自覚してからずっと、ただひたすら一途に彼を慕いつづけた。もちろん脇目も振らずに、である。そこへもってきて剣心の白い指が、やさしく素肌に触れてくるのだ。若さも手伝って、頭より先に躰が反応してしまう。

 だが彼は、猛り立ったものを冷静に拭き清め、何もなかったことにして清拭を終えるのだ。ふたりの反応や行為に温度差があればあるほど、いたたまれない気分になるのは当然のことだろう。

 今日もまた看護士が来る頃合いを見計らって着衣と包帯が解かれた。やさしく、ていねいに躰を拭われると、どうしようもなく勝手に熱が上がっていく。清拭の手が腰にさしかかったあたりから、張は頭の中で天井の節目を数え始めた。

 傷に障らないようにと気遣っているのだろう。剣心の手は触れるか触れないかの微妙な力加減で、どうかすると、まるで擽られているように感じることがあった。張には、これはたまらなかった。とても冷静ではいられない。それでも懸命に天井を睨んでいた張だったが、剣心の手が、わずかに位置をずらした瞬間、とうとう彼の手の中に放ってしまった。

 快感も何もなかった。ただ生理的な反応だった。いままでは何とか耐えられていたが、すでに、いつ爆発しても、おかしくない状態だっただけの話だ。

 とはいえ、放ったと同時に張はうろたえた。

 ───── やってしもうた。

 気まずさに顔をそむける。

 張の狼狽を知ってか知らずか、剣心は何ごともなかったかのように清拭をつづけ、それが終わると新しい寝間着を着せ掛けてくれた。所作には少しの乱れもない。気まずさで顔も上げられない張を尻目にカーテンの作る空間の外へ出て行く。手桶の水を捨てに行ったのだろう。

 顔を向けることもできず、気配で剣心を追っていた張は、ひとり残された帳の内側で、ふいに切なさを覚えた。

 ───── ワイの口説き文句は、ぜんぜん効き目がなかった…っちゅーことやな。

 望みが薄いのは承知の上だった。けれど、こうまで淡々とやりすごされてしまったら、張には男として立つ瀬がない。いや、『男として』だけではなく、剣士としても彼に認められていないような気がした。嬉々として介護を受けてしまった自分の迂闊さが急に腹立たしくなった。

 しばらくして剣心が寝台の傍に戻ってきた。顔をそむけたままでいる張に彼は言った。

「気にすることはないでござるよ」

 声音のやさしさに、なおさら苛立ちがつのる。

「もう…ええんや」

「…張?」

 くぐもった声での返答が聞き取れなかったらしい。剣心は寝台の端に腰掛けて、張の顔をのぞき見た。かがみこんだ拍子に、ひとつにまとめられていた彼の髪の幾筋かが流れ落ち、張の頬をくすぐるようにかすめた。

 髪の匂いを意識したとたんに大きく胸が鳴った。

 ───── ホンマに…このひとが好きなんやなぁ。

 しみじみと張は思う。

 だからこそ同情だけで肌に触れられるのは屈辱だった。恋情を憐憫で返されることも。

「あんなぁ、…もう、ええわ」

 妙に、しわがれた声が出る。

「その気もないアンタに、こんなんしてもらうの、なんか…惨めやわ」

 目線を合わさずに告げる。剣心は何も言わなかった。張も、さすがに彼の顔を見上げる勇気はなかった。

 耳が痛くなるほどの沈黙を張が十分に味わった頃に、剣心は病室を出て行った。

 

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