臥待月 (ふしまちづき) 四
剣心は警視病院の裏側にある紀尾井町の周辺をぶらぶらと歩いていた。ときおり病院の建物を振り返っては、深いため息をつく。なぜか離れがたい思いが、この場所から立ち去ることを拒んでいた。 ───── そうは言われても…。 奇妙に胸が塞いでいる。 斎藤から張が瀕死の重症を負って警視病院に収容されていると聴いたときには自分でも不可解なほど衝撃を受けた。取るものもとりあえず病室にかけつけ、手厚く包帯を巻かれた姿のわりには生気のある眼差しをしていたことに安堵し、快復の助けになればと身の回りの世話を買って出た。しかし、当初は単純にそれを喜んでいた張の様子が、しだいに沈鬱なものに変わっていったことには剣心も気づいていた。 冷静に考えたら残酷な振る舞いだったと思う。張は剣心の介護のみを欲していたわけではない。彼にしてみれば、介護だけなら赤の他人を賃金で雇うほうが気は楽だっただろう。身動きのできない躰で生活の一切を他人にゆだねるのだ。醜態をさらしていると感じることもある。家族や、情を通じたことのある情人にならともかく、口説いている最中の片恋の相手には、けっして見られたくない場面であったろう。 そのうえ剣心は、張のもっとも欲している望みを無視した形で接しつづけた。彼の懊悩は、いかばかりであったことか。それを分かっていながら介護をつづけたのは、剣心のほうに彼を世話したいという思いがあったからだ。彼の想いに応える気がないのなら、最初から世話を焼くべきではなかったのだ。彼と過ごすひとときが、どれほど心楽しいものであったとしても。 そこまで考えて、ふと立ち止まる。 ───── 楽しい…か。 たしかに楽しかった。 現実には持ったことのない弟ができたように思え、まとわりつかれることに閉口しながらも、それを迷惑に感じたことは一度もなかった。いつのまにか傍にいて当然の存在になり、いてもいなくても、べつにどちらでもいいけれど、いなければ物足りないような寂しさを覚えるようになった。 ───── 張を必要としていたのは、ほんとうは拙者のほうだったのかもしれぬ。 恋情ではないにしても、しごく似た想いであることは間違えようがない。彼が訪ねてこなかった数日間の寂寥が、これからずっと続くのかと思うと耐えられない気がした。 剣心は一つ大きく息を吸って、勢いよく踵を返した。
───── アホなこと言うてしもうた。 頭の中は後悔でいっぱいである。 もう二度と剣心は訪ねてこないだろう。たとえ退院して、こちらから訪ねて行っても、今度こそ拒絶されるだろう。そう思うと、なにもかもが嫌になる。かといって、生殺しのまま剣心に付き添われるのも限界だった。肉欲だけの問題ではない。張は心を通じ合いたかったのだ。 ぼんやり天井を眺めていると、カーテンの向こうで人影が動いた。看護士が戻ってきたのかと思い、そちらに顔を向けた。分けられた布の隙間から赤い色彩が目に飛び込んできた。 しばらくは口も利けなかった。 ───── なんで…戻ってきたんや? 枕もとに立った男も、また黙って張を見下ろしている。見慣れたはずの顔が、なぜか初めて見るもののように眩しい。 寝台の上掛けをめくり、そこへ腰を下ろした剣心は、張の躰に寄り添うように横たわった。傷を負った張の躰に体重をかけないための配慮らしい。彼は張の耳もとに顔を寄せ、ささやくように言った。 「おぬしの勝ちだ」 たがいの顔が、息の触れ合う距離にある。張は信じられずに何度も目をしばたいた。けれど鼻先にある剣心の顔は、どう見ても夢ではなさそうだった。思いのほか長い睫毛に縁取られた黒目がちの目や、筋の通った鼻梁、神経質そうな細い顎。頬には特徴的な傷跡があり、触れてみたいと、いつもひそかに思っていた。それらが絶妙の位置に配置されている顔を張は呆然と眺めた。はじめて間近で見る面差しは、やはり端整で美しかった。 「あの…ええと」 疑問を口にする前に唇が重なった。やさしく唇を割る舌先にうながされて深い口づけを交わす。 夢にまで見た一瞬だった。つかのま、ここが病室であり、カーテンの向こうには他の入院患者がいるということも忘れた。 「声を立てぬよう」 そう言って剣心は、張の寝間着の褄を割った。忍び込んだ手が、やさしく下肢を探る。からみつく指に、あっというまに張の熱情は高まり、たちまち熱をはらんで硬く張り詰めた。 甘い唇を味わいながら、張は下肢にあたえられる愛撫を享受した。巧みな指は、張を焦らしては頂点へと誘った。痛みも忘れて剣心の躰を抱き寄せると、着衣ごしでも感じられるほど熱くなっているのが分かった。彼も感じているのだと思うと嬉しかった。 「なあ、ワイだけエエのはイヤや」 強引に腰を抱き寄せて、手探りで袴帯をゆるめた。予想外の展開だったらしく、剣心は小さく抗った。腕の中でもがかれて、張の傷口がピシリと引きつった。 「あっ痛ぅ」 「あ、す、すまぬ」 「いーや許さん」 抵抗が弱まった隙をついて、はだけた襟元から手を差し入れた。遠慮がちにつづいていた抵抗は、素肌を撫で上げたとたんにおさまった。 「こんな…ところで」 「はじめたのはアンタやんか」 「そんなつもりでは」 「そんなもこんなもナシや。声を出したらアカンで」 唇を重ねたまま指で中心を探る。指をうごめかせるたびに、抱きしめた躰が、子兎のように小刻みに震える。反応があると、嬉しさのあまり、暴走しそうになる。上掛けの中での行為とはいえ、カーテンを引き開けられたら、はなはだ不味いことになるのだ。不審な声や物音を禁じられた状態なだけに、息づまるような緊迫感があった。 唇を交わし、交差した腕で、たがいの下肢を愛撫する。殺した喘ぎを口づけで吸い取りながら熱を煽っていく。敏感に反応する箇所を容赦ないやさしさで執拗に追い立てる。 「エエか?」 「んぅ…」 「ワイもや」 おさえたささやきで睦言を交わす。懸命に声を殺している様が、狂おしいほど愛しい。 ───── こーゆーのもエエかも。 われながら悪趣味だとは思いつつ、張は最後の関を越えた。
圧し殺した声で剣心はささやいた。もう、すっかり身づくろいを終えて寝台の端に腰掛けている。 「なに。アンタのためやったら、こんっくらい軽いもんやわ」 もちろん空元気である。熱情が退いたとたんに、忘れていた痛みがぶり返し、寝返りも打てなくなっていたが、さいわいにして傷口が開いた様子はないので、そのまま強がることにした。 「まだまだイケるで。なんやったら、もっぺんイカしたってもええで」 「そうか」 虚勢を見抜いているらしい。彼は咽の奥で笑いながら、張の額に湿した手ぬぐいを載せてくれた。 「ここでは遠慮しておこう。おぬしの怪我が治ったら、もっと気兼ねの要らぬ場所で、存分にしてもらうでござるよ」 「ホンマか?」 「ああ。だから、早く良くなってくれ」 「なるなる。すぐ良うなる」 寝台に深く沈んだ姿で、口調だけは勇ましく張は答えた。 |