戦争は人間のしわざです

戦争は人間の生命の破壊です

戦争は死です

過去を振り返ることは将来に対する責任を担うことです

ヒロシマを語ることは核戦争を拒否することです

ヒロシマを考えることは平和に対して責任をとることです

 

ローマ法王 ヨハネ・パウロU世


水面の祈り (みなものいのり)  一

 

 気がつくと山深い細道に剣心はひとり立っていた。しっとりとした薄闇が、けぶるようにあたりを覆っている。陽が沈んだばかりなのだろうか。払暁の気配はない。うっそうと繁った巨木が視界をさえぎるように立ち並び、わずかに残った明るみを、なおいっそう遠いものにしていた。

 ───── ここは、いったい…?

 なぜ自分は、こんな深山路(みやまじ)にいるのか。

 どうやって、ここまで来たものか。

 木々の枝を鳴らすやわらかな風に頬を撫でられながら剣心は思う。

 かすかに脳裡に浮かぶのは漆黒の瞳と血の朱。けれど、それすらも、どこか頼りなく、まるで夢の中の記憶のようだ。

 不安な思いに後押しされて足を踏み出した。下生えを踏みしめながら下りと思える方向へ足を向ける。

 いつもなら自然に働くはずの方向感覚が、なぜか奇妙にずれている。山で迷った場合、あてもなくさまよい歩くのは得策ではないのだが、心もとなさに歩き出さずにはいられなかった。

 ときおり立ち止まり、水の流れる音を求めて耳を澄ました。湧き水でも何でも水さえあれば、あとはその流れをたどって麓まで下りていける。野宿するにも水は必要だ。しかし、いっこうにそれらしい物音を捉えることはできなかった。よほどの深山幽谷へと迷い込んでしまったのだろうか。

 何かが違う。

 ことばにできない違和感が、どこかにたゆたっている。

 あらためて周囲の様子をうかがった。そういえば、この山には生きものが棲んでいるという気配がなかった。夜になれば気を吐くはずの樹木ですら妙によそよそしく、まるで借り物のように息をひそめている。見上げた空にも星はなく、薄墨を刷いたような灰色の天井が、木々のこずえの隙間から垣間見えるだけだった。

 ───── あ…?

 いいようのない感覚が脳裡に閃いた。あえて言うなら、それは郷愁に似ていた。

 かさねがさね奇妙なことである。

 たしかに訪れた憶えのない場所なのだ。木々の形、草の影、仰ぎ見る薄暮の空にいたるまで、なにひとつ過去に出会ったものではなかった。けれど目にする風景は、遠い昔に慣れ親しんだような懐かしさをにじませている。

 ───── そんなはずはない。

 剣心は頭を振り、ふたたび歩き始めた。ひっそりと静まり返ったあたりの空気に、自身の足音だけが空しく響いた。

 ふいに前方の木立で草を踏み分ける音がした。同時にがしゃがしゃと金具のぶつかり合うような音が鳴った。

 自分が立てる以外には、ここに来て初めて聞く物音である。そうそう迷い人があるとは思えない。山人か猟師か山賊か。とりあえずは気配を消して木立に近寄り、枝を分けて様子をうかがった。

 そこにいたのは、鎧兜に身を固めた創痍の武者だった。

 剣心は我が目を疑った。鎧兜の武者だとは、時代錯誤もはなはだしい。しかし、何度まばたいてみても眼前の光景は変わらない。

 兜の前立ては無惨に折れ、鎧の肩や胴の部分は原型を留めぬまでに千切れている。鎧の下からは、血にまみれた布地や肉の切れ端が、遠目にもそれと分かるほど覗いていた。どう見ても動き回れそうな浅手ではないのに、武者は構う風でもなく、無頓着に茂みを掻き分けて進んでいく。

 その武者のあとを追うようにして、一群の武者たちが、ぞろぞろと歩いてきた。いちように満身創痍で、なかには手や足を失っている者もいる。全身に矢を射掛けられ、まるで針山のようになっている者までいた。

 剣心は息を止めて無言の行列を見つめた。頭のない男が藪から現れたのを目にしたときには、あやうく悲鳴を上げそうになった。男は自分の頭を小脇にかかえ、折れた朱槍をもういっぽうの手に持って、のろのろと行き過ぎていった。

 木々の狭間に呑まれていく男たちを後ろ姿を、息をつめて剣心は見送った。

 あれは死者の群れだったのだ。

 錯乱しながらも、それは理解できた。

 ここは死せる魂の通り道であるらしい。

 では。

 なぜ自分は、ここにいるのだろう。

 ───── おれは死んだのか。いつ、どんなふうにして?

 記憶の糸をたぐりよせても、自身の臨終に関するものはなかった。

 剣心は、おそるおそる自分の躰をあらためた。肩や背中に怪我でもしたのか、胴に幾重にも繃帯が巻いてある。腕を上げると、ひきつるように背中の皮膚がつっぱった。むず痒くはあるが痛みはない。額に巻かれた繃帯には、ごわごわとした箇所があり、血の染みが乾いたあとなのだろうということは、すぐに分かった。左の頬に馴染みのない傷痕が増えている。以前からあった傷痕の上に交差するように走ったそれは、まだ真新しいものらしく、触れると痺れるような感触があった。とはいえ、直接の死因になりそうな傷は見当たらない。

 ───── とにかくここを離れなければ。

 これは禁忌だと本能が告げている。生ある者が立ち入ってはならない場所に、どういうわけか紛れ込んでしまった。

 いても立ってもいられず、剣心は走り出した。







 下生え踏みしだき、木の枝を素手で払いながら、剣心は道なき径を駆け降りた。

 遠くへ。少しでも遠くへ。

 一刻も早く忌むべき場所から離れたかった。

 草の葉や小枝が鋭い刃となって素肌を傷つけたが、痛みを感じる余裕もなかった。

 一群の木立を抜けると開けた山道に出た。道の片方の端には険しい山肌があり、反対側には切り落としたような深い断崖がつづいている。断崖は深い谷間につながっており、峡谷を挟んだ向かい側にも険しい絶壁がそびえている。崖の下までは暮れなずむ陽も届かず、暗澹(あんたん)とした闇が、はるかな底に横たわっていた。

 山道に出ても人気はない。立ち並ぶ大樹が傘となって、道に影を落としている。

 剣心は、少し歩調をゆるめて山道を下った。

 いくら歩みを先へ進めても、あたりの景色には変わりがなかった。

 暮れ残る夕闇。

 灰色の晩景。

 重そうに枝を垂れた木々が作る隧道(ずいどう/トンネルのこと)。

 いまにも、とっぷりと暮れ果ててしまいそうな宵闇は、いつまでたっても黄昏どきのまま、薄く山野を覆っている。

 急に思い立って足を止めた。

 そういえば、狐に化かされて、何度も同じ道を堂々巡りする話がなかっただろうか。それとも、これは夢なのだろうか。

 脳裡に浮かび上がってくる疑問には、あえて気づかないふりをする。

 たしかに『死』を恐怖したことはなかった。ひとは、いずれ死ぬのだ。しかし、死したのちに待っている運命が、こんなところを延々とさまようことだとは思いたくない。

 茫然と立ちつくしていると、ぼんやりした人影が、暗がりの向こうに現れた。やけに緩慢な足取りで、こちらに向かって登ってくる。どうやら羽織袴姿の男のようだ。脚を引きずってでもいるのか、男が歩みを進めるたびに、砂を掃くような乾いた音がしていた。

 生者にしろ死者にしろ、正面から顔を付き合わせる気にはならず、数歩退いて木々の間に身を隠した。気配を消して男の様子をうかがう。ようやく男の容貌が判別したとき、信じられないほどの驚愕が剣心を襲った。

 それは、生まれて初めて斬り殺した男の顔だった。どういう名だったかすら記憶にはないが、断末魔の形相は、今でも目の裏に焼きついている。とすれば、男が引きずっているのは脚ではない。剣心は男の腹を斬り下げたのだ。

 ぐぅ、と胃の腑が絞り上げられた。せりあがってくる吐き気に咽が鳴る。

 ───── おれは…まちがっていない。

 必死の思いで噛みしめる。

 新時代のために、人々の幸せを守るために、数えきれないほどの人命を奪った。

 人斬りを悪し様に評する者もいる。いつかは報いを受けるかもしれない。だが確実に、ひとつの時代の必要悪でもあったはずだ。でなければ、剣の腕が立つ以外には能を持たなかった少年に、ほかに何ができたというのか。

 はみだしこぼれた内臓を踏みながら、苛立つほどに、ゆっくりと男は歩いた。口もとを押さえてそれを見送った剣心は、男のあとからついてくる群衆に気づいて目を剥いた。手で口を押さえていなければ絶叫していたことだろう。山道を埋めつくしてぞろぞろと上って来る一群の人影は、すべて自身が誅殺してきた男たちだったのである。

 どの顔にも見憶えがあった。忘れ去ることができるほど、人の命は軽くない。そして、どれだけ高尚な志があり、正当な理由があったとしても、彼らにとって剣心が殺人者であることに変わりはないのだ。

 剣心は無意識のうちに、あとずさっていた。これ以上、自身の罪科を見せつけられることに耐えられなかった。息を止め、気配を殺し、細心の注意を払って脚を退く。しかし、どうしたものか、亡者たちは、いっせいに頭をめぐらせ、剣心を見据えた。ぼんやり前方に向けられていただけの茫とした瞳に、昏い熱情の火が灯った。

 亡者の群れは向きを変えた。

 おのれの命を奪った者へと。

 ある者は手を前に差し伸べ、ある者は自身の内臓をさらけ出しながら、剣心をめざして前進を始めた。

 凄惨な場面を目の当たりにして、膝ががくがくと笑う。

 おぞましさに縛められて身動きもかなわない。

 ───── これは夢だ!

 悪夢に違いない。否。悪夢であったら、どれだけ気が楽か。

 血にまみれた何本もの腕が、愛しい者を抱き寄せるかのように伸ばされた。死者たちの指が躰に触れる寸前、やっとの思いで身を躱すことができた。

 木々の隙間を縫って、やみくもに走る。しかし思ったように躰が動かない。必死で走る背後から追っ手の足音が響く。

 死者たちの追跡は執拗だった。どこまで逃げても追跡者の気配を引き離すことはできなかった。

 剣心は絶望的な叫びをあげた。

 ここは『底』なのだ。

 潰えた希望の残骸だけが未練がましく息づいている。

 罪と血に穢れた禍つ身を救い上げてくれる手は存在しない。ましてや逃げ込める場所など、どこにもなかった。

 ふいに前方の草むらから黒い人影が現れた。

 ───── 待ち伏せか!

 反射的に腰に手をやるが、もちろん刀はない。もっとも、あったところで役に立ちはしなかっただろう。なにしろ相手は死人である。

「お待ちなさい」

 女の声が空間を貫いた。

 ───── なにっ!?

 剣心は表れた人影を凝視した。行く手をさえぎったのは小柄な女だった。

 奇妙ないでたちである。洋装であることは見当がつくが、今まで目にしたことがないような扇情的な衣服を身にまとっている。薄手の生地で仕立てられた闇色の衣装は、躰の線をそのままに浮き立たせ、まるで裸身よりも裸身に見えた。大きく開いた胸もとからは、胸のふくらみが半分近くあらわになっている。白い胸の上には、ほっそりとした長い首があり、ゆるやかに波打つ漆黒の髪に縁取られた面差しは、薄闇の中にあっても認められるほど端整に整っていた。

「あ、…あなたは」

 生者の気配に満ちているのは見て取ったものの、素性までは分からない。

「ただの通りすがりよ。それより…」

 そう言いながら彼女は、優雅な動作で羽織っていたショールを外した。

「しばらく、じっとしていなさい」

 ふわり、とショールの縁が剣心の鼻先で躍った。同時に、やわらかな闇に視界を閉ざされ、剣心は意識を失った。

 

 

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