水面の祈り (みなものいのり)  二

 

 とうとつに闇の帳が取り去られ、剣心は何度か目をしばたいた。

 眼前には相変わらず黄昏どきのような薄闇が広がっている。頬をくすぐる草の葉に、やわらかな草むらに横たえられていることを知る。

 ───── なんで…こんなところに。

 記憶が錯誤している。たしか先ほどまで死者の群れに追われ、必死で逃げ惑っていたのではなかったか。そこへ突然、得体の知れない女が現れたのだ。

 懸命に意識を呼び戻そうとしていた剣心の鼻先へ、一条の煙が漂ってきた。

 乾いた草の葉を燃やす芳ばしい匂い。煙草の匂いだった。

 あわてて起き上がり、煙の流れを目でたどった。さきほどの女が傍に座し、細長い筒をくわえて白い煙をくゆらせていた。見慣れぬ形ではあるが紙巻きの煙草のようだった。

「目が醒めた?」

 彼女は剣心を見ると、口もとだけで微笑んだ。

「あ、…ああ」

 周囲に死者たちの姿はなかった。

 ───── どういうことだ?

 自分の身に何が起こったのか分からない。

 あたりを見まわす動作が滑稽だったのだろう。女は小さく哂った。

 不躾とは知りつつ女の姿をまじまじと見つめる。

 見れば見るほど不思議な女だった。一見したところ美しく、歳若いようにも見えるが、眼光には若年らしからぬ炯りを宿している。一歩まちがえれば醜悪に感じてしまいそうな老獪な鋭さが、その瞳にはあった。

 彼女が窮地を救ってくれたのか。にわかには信じられないことであったが、ほかに思い当たる節もない。

「あなたが…助けてくれたのか」

「ええ」

「かたじけない」

「礼にはおよばないわ。よくあることですもの」

「よくある?」

 女は胸もとから薬籠のような小さな容器を取り出し、その中に喫いかけの煙草を差し入れた。どういう仕掛けなのかは知らないが、ふたを閉めたとたんに煙が立ち消えた。灰受けのようだった。彼女は胸もとに灰受けをおさめながら言った。

「もう分かっているでしょう。ここは根の国、死者の国よ。死せる魂が一番さいしょに来るところ。でも、たまに生きたまま迷い込んで来るひとがいるの。あなたのように」

「では、おれは…」

「まだ死んでないわ」

 女の言葉に剣心は大きく安堵した。安堵を覚えて、そして苦笑する。

 ───── 死を恐怖したことなんて、なかったのに。

 先ほどの取り乱しようを思い出すと、情けない気分になる。

 死者の国の一端に触れて怖れをなしたのだ。

 いかに正義のためという大義名分があったとはいえ、死者たちには己の命を奪った者に対する怨念しか残されていないということを身をもって知った。生者の世界の法則など、なにひとつ通用しない場所なのだ。いずれはここに堕ちるとしても、今は一刻も早くこの場所から逃れたいのが本音だった。

「心配しなくても、ちゃんとあなたが、もといた場所まで送ってあげるわ。だから少し付き合ってちょうだい。わたしには、わたしの用があるのよ」

 剣心の不安を察したのか、女は立ち上がりざまに言った。

 ───── 用、だって?

 女に感じていた不気味さの正体に気づく。

 彼女は自らの意思で、ここにいるらしい。しかも行き来が自在のようである。かよわげな女の姿をしていても、額面通りの相手ではないということか。

 不安が胸に寄せてくる。

 しかし彼女は間違いなく剣心を救ってくれた。生者の世界に帰すと約束までしてくれた。信じるよりほかに手立てはない。

 剣心は、ゆっくりと立ち上がり、女のあとに従った。







 女の足に迷いはなかった。山道から獣道のように細い山径へ分け入ったときにも、馴染んだ小路を進むがごとくの足取りである。

 ───── そういえば、名を訊いてなかったな。

 丈の高い草に見え隠れする背中を眺めながら剣心は思う。

 声をかけようとした矢先に女は立ち止まった。つられて立ち止まり、彼女の肩越しに前方を見やると、木立に囲まれた小さな平地が拓けているのが目に入った。

 猫の額ほどの広間では、ひとりの男が、いかにも心許なげな態で、うろうろと歩きまわっている。彼もまた、見慣れない洋装をしていた。衣服には、あちこちに血の染みがついていたが、目元には生気があった。どうやら生者のようだった。

「ビリー」

 女は男に呼びかけながら木立を分けた。呼ばれた男は、あわてた様子で振り向き、ついで子どものように破顔した。

「あれェ、ヘンなところデ会いましたネ」

 奇妙な発音で男は応えた。外見は日本人そのものであったが、まるで異人のように不自然な喋り方だ。

「あなたモ迷ったのデスカ?」

「いいえ、あなたを迎えに来たのよ」

「はァ?」

「あなたは、まだ、ここに来るべきひとではないの」

「どういうことデス?」

「いずれ、わかる日がくるわ」

 そう言うと彼女は、男に向かってショールをひるがえした。

 つぎの瞬間には男の姿が消えていた。

 剣心は、男が立っていた場所を見やり、女の姿をながめ、もういちど男が立っているはずの、彼が消え去った空間を見つめた。

「さあ、行きましょう」

 こともなげに言うと、女は、もと来た径を引き返しはじめた。

「…今の男、は?」

「彼は、わたしの友人よ」

「いや、そういうことじゃなくて…」

 剣心の困惑に気づいたのか、彼女は微笑を浮かべた。微笑といっても、人の悪い部類の笑顔だ。

「この中にいるわ」

 鳥が翼を広げるように、闇色のショールをひらめかせる。

「あなたも、さっき入ったでしょう」

 ああ、と剣心は嘆息した。ようやく得心がいった。これなら死者の追跡から身を隠すことができたのも道理であった。

「まるで妖術のようだな」

「気味が悪い?」

「いや…」

 いつのまにか、彼女に対する不審が消えていることに気づく。

 先刻の男が彼女に見せた満面の笑み。屈託のない笑顔は、無上の信頼に満ちていた。あれほど無防備な笑顔を友人にさせる人物が、悪人であろうはずがない。そんなふうに思えたのである。

「おどろいたが、慣れると、そうでもない。便利そうな技だ」

「そうでもないわ。いつでも、誰にでも使えるってわけじゃないから」

 彼女は皮肉そうに口もとを歪めた。







 ふたりは連れ立って山道を歩きつづけた。ずいぶん長いこと歩いたようだったが、逆に、さほど歩んでいないようにも思われた。ここには時間の流れがないのだと女に教えられ、鎧兜の武者たちが、維新の頃の死者と同じ場所にいた不思議を納得することができた。

 ───── と、すれば…。

 剣心が生きる時代よりも未来を生き、未来に死ぬ者もいるはずだ。

 ここまで考えて、前を行く女に思い至った。

 見慣れない髪型や洋装。紙巻きの煙草。異人のような友人。

 彼女こそが、未来の世界から来た者なのではあるまいか。

 一瞬、幕府方と維新志士との戦いが、どういう結果に終わるのかを聴く衝動にかられそうになった。しかし、つぎの瞬間には思いとどまった。望みの答えを得られるとは限らないのだ。結果を知ってしまうことに、ためらいがあった。

 黙々と歩きつづけているうちに、急だった坂道の傾斜が、だんだんとなだらかになり、別の一本の山道と交差している場所に出た。行く手をさえぎるように、おおぜいの人影が、いっぽうの暗がりから、反対側の暗がりへと、のろのろ移動している。これも、また死者の群れなのだろう。

 とつぜん女の背中から、炎のようなものが湧き立った。『気』のようだ。目に見える形で、そんなものを見たのは初めてのことだった。

「あの…」

 思わず発した呼びかけに振り向いた女の面持ちは、能面のように冷たい。だが剣心は、なぜか彼女が怒りをあらわにしているような気がした。

「…ちょっとタイミングが悪かったわね。しばらく通れないわ。とぎれるのを待ちましょう」

 ことばの意味は分からなかったものの、死者の群れが通り過ぎるのを待とうと言っているのは理解できた。しかたなく目線を前方に戻した剣心は、行き過ぎる人々の姿をはっきり認めたとたんに胆をつぶすほど驚愕した。

 どう見ても、人間であるとは思えないものたちが、目の前をよこぎっていく。

 溶けて崩れた皮膚。

 焼け焦げてちぢれた頭髪。

 衣服らしきものの残骸をきれぎれに躰に貼り付けて彷徨する死人の群れ。

 しかも、数が尋常ではない。

 はるかな向こうから、かなたの闇までを埋め尽くさんばかりに死者の行列はつづいている。

 ───── とんでもない大火があったのか。

 いつの時代のことなのか。死者たちの風体からは、うかがい知ることができない。

「これは…彼らは…」

 自分のものとは思えないほど、しわがれた声が出る。

「なせ…あのような、むごい有り様に…」

「ああ」

 女は剣心を振り向き、少し考えるように首をかしげたあと、とうとつに訊いてきた。

「あなたの生まれた時代は、いつなの?」

「時代…とは? 嘉永だが、それでいいのか?」

「嘉永。そうね、百年後ってところかしらね。あなたが生まれた時代から、百年くらいあとに起こった戦争の犠牲者よ」

「戦争…?」

 ことばの意味を呑み込むのに、しばらくかかった。

 ───── 終わっていないのか。

 今の戦いが、百年たっても。

 訊いてはいけないような気がする。だが訊かずにはいられない。

「それは…やはり倒幕の…」

「倒幕…江戸幕府のこと?」

「そうだ。おれは江戸幕府を倒すために働いている」

 女は無言で何度か頷いた。さきほど剣心を追っていたのは、天誅をくだされた者たちであると察したようだ。

「あなたは、倒幕の志士なのね」

 彼女は目を細めた。

「あなたの望みは叶うわ。江戸幕府なんて、とうのむかしに、なくなっているもの」

「しかし、百年後にも戦争があると言っただろう」

「戦争が、なくなるわけ、ないじゃないの」

「なにっ!」

「幕府が倒れたら倒れたで、争いの種は尽きないわ」

「そんな馬鹿な」

「心外に思うことはないでしょう。あなたの望みは叶うんだし」

「ちがう。そんなことは望まなかった。おれが望んでいるのは、だれもが安心して暮らせる新しい時代だ」

 冷ややかな女の目線と真っ向からぶつかった。

 ───── 信じては、いけない。

 本能が警鐘を鳴らす。

 のちの世のためという強い信念があったからこそ、屍の山を築いても狂わずにいることができた。待ち受ける未来は、一片の曇りもないものでなければならない。そうでなければ、いったい何のために、この手を穢したのか。これ以上、彼女の大仰な言動に振りまわされるのは危険だ。

「いいかげんなことを言うな。おれが刀をふるっているのは、皆が安心して暮らせる新時代を作るためなんだ。おれだけじゃない。みんな平安を望んでいる。倒幕が叶えば、戦争なんて起こるはずがないんだ」

 しばらく睨み合いがつづいた。剣心の眼光を受けても、女にひるむ様子はない。薄闇を背景にして艶然とたたずむ姿に、言いようのない戦慄を覚える。

「わたしが嘘を言っているとでも?」

「あたりまえだ」

「じゃあ、事実を見せてあげましょうか」

 言いながら彼女は剣心に歩み寄った。

 気おされて無意識に後ずさってしまったらしい。女は嘲笑めいた笑みを浮かべた。

「逃げるのね。怖いの?」

 そうまで言われたら、引き下がることはできない。こうなれば意地だった。なにをするつもりなのかは分からなかったが、とりあえず口もとを引きしめて女を見据えた。

「逃げたりはしない。好きにするがいい」

 剣心を見つめる女の目が異様に輝いた。

 彼女は右手を差し伸べ、手のひらで剣心の額に触れた。手のひらが作る闇に視界を覆われ、剣心の意識は闇の帳に吸い込まれた。

 

 

大熊猫電脳通信トップページへひとつ前のページへ次のページへ