水面の祈り (みなものいのり)  三

 

 薄闇の世界から、とうとつに明るい場所に剣心は出た。まぶしさに痛む目をけんめいに見開くと、たくさんの人々が行き交う賑やかな大通りに立ってるのに気づいた。

 事態の展開におどろき、あわてて周囲を見まわした。見慣れない風景だったが、どうやら早朝のようである。地味な色合いの服装をした人々が、せわしなく通りを行き過ぎていく。広場では若々しい顔をした者たちが、はりめぐらせた網をひっぱり、木造の家を引き倒そうとしている。どの顔も、若いというよりは子どものように見えた。

 和装をしたものは、ほとんど見あたらない。男女を問わず、だれもかれもが作務衣のように動きやすそうな服を身に着けている。着物に袴という自身の出で立ちが異様に見えるほどであったが、にもかかわらず、誰ひとりとして剣心を見咎める様子はなかった。

 不審に思って、手近の者を呼び止めようと腕を伸ばしたとき、まるで空を切るように、手が人体をすり抜けた。さらに何人かの者を呼び止めようと試みたあげく、自分が、この世界に実体として存在しているのではないことを知った。

 肉体から抜け出た魂だけが、ここに在る。信じがたいことではあったが、信じられないことでもない。女は事実を見せてやると言っていた。では、これが彼女の言う百年後の未来世界なのだろうか。

 市街の中心地なのか、往還は整然と整えられ、道の中央には列車の線路らしきものが敷かれている。砂ぼこりを巻き上げて、荷物を積んだ荷馬車が駆けて行く。朝の賑わいを縫って、蝉の鳴き声が遠くから聞こえた。

 空は雲ひとつなく晴れ渡り、盛夏の気配に満ちていた。多少の違和感はあるものの、ありふれた朝の光景だった。人々の服装や家々の造りに少々の違いはあっても、そこには連綿と繰り返される日々の営みが、確実に存在していた。

 ふいに上空から、かすかな機械音が響いた。なにげなく見上げた天空を、まばゆく光る物が飛んでいる。

 ───── 鳥か。

 剣心は手のひらを額にかざして、輝きを反射しながら飛ぶ物体を眺めた。

 はじめて目にする物体だった。蒼穹に白銀のきらめきが映えて美しい。ものめずらしいのか、周囲の人々も、それぞれに空を仰ぎ見ていた。

 銀色に光る物体は、空中に何かを投下し、まるで何かから逃げるように、急激に向きを変えた。機械音が、ひときわ大きく響く。

 投下された何かは、黒い小さな点となって、真っ青な空にぽつんと落とした墨の染みのように見えた。

 なんの脈絡もなく、それが爆弾であることを覚る。

 その瞬間。

 世界が白熱した。

 橙色(だいだいいろ)の閃光が視界を覆い尽くした。

 光には圧力があった。

 全身が地面に圧しつけられ、潰されそうなほどの圧力だった。

 意識が白濁する。

 霞みかけた意識の端で、たしかに剣心は閃光の味をあじわった。

 鉛のような、重く苦い味がした。

 強烈な閃光に焼き尽くされて、世界中の色彩が燃え上がり、瞬間的に蒸発した。

 束の間、時間が止まった。

 つぎに襲ってきたのは、何百もの雷鳴が、いちどきに炸裂したかのような、耳をつんざくばかりの轟音だった。

 轟音とともに、猛烈な爆風が起こった。

 一瞬にして、あたりの建造物が、いっぺんに吹き飛んだ。

 爆風をもちこたえた建物の屋根が、一刹那、こらえきれないように震えると、つぎの瞬間には、風にもぎとられた木の葉のように宙を舞う。

 木造の家は原形を留めないほど粉々になって飛び散り、沿道に植えられていた大木が軽々と浮き上がった。

 巻き上げられた物のなかには人間もいた。爆風にさらわれた人間の手足が、必死に空中で足掻いていた。

 ほんの一瞬のできごとだった。

 爆風がおさまり、焼きついた閃光の残像が消え去ったあと、剣心の目に飛び込んできたのは、想像を絶する地獄のごとき光景だった。

 あたりは不気味なほどの静寂に満たされている。

 ほこりとも爆煙ともつかない噴煙が上空を厚く覆い、まるで黄昏どきのような薄闇が、周囲にひっそりと降りている。

 わずかな数を残して建造物は崩れ去り、瓦礫の海と化した焦土が、見渡す限りの地平に広がっていた。

 ───── うそ…だ。

 剣心が目にしたのは、たった一発の爆弾だった。

 たった一発の爆弾に、この広い地表を一瞬で廃墟に変える威力があろうはずはない。

 これが『事実』であるはずがない。

 呆然と立ち尽くす足下から、弱々しい呻きが聞こえた。崩れた建物の下に生存者がいるらしい。

 瓦礫を払い除けようとした手が空を掴んだ。あきらめきれずに何度も空をまさぐり、けっきょく自分には何ひとつできないことを思い知った。

 これだけの惨状を目にしながら、救いを求める声をすぐそこに聞きながら、手を差し伸べることすらできない。剣心にできるのは、ただ見ていることだけだった。

 やがて瓦礫の中に、ぽつりぽつりと人影が立った。爆風に身をさらしたせいか、衣服はぼろぼろになり、みな裸同然の格好である。むき出しになった皮膚は焼け爛れ、炎に触れた蝋のように溶け崩れていた。

 救いを求める声が充満する中で、火の手が上がった。

 街のあちこちで同時に起こった火災は、またたくまに大きく燃え広がった。家の下敷きになり抜け出せなかった者たちは、火の絨毯に抱き取られ、彼らが上げつづける断末魔の悲鳴は、猛火にまぎれて消えていった。逃げ惑う人々の足よりも、火の回りは速く、逃げ遅れた者は、つぎつぎと火焔に呑み込まれていった。

 火の手を逃れて川に飛び込んだ者たちの頭上にも、容赦なく熱風が襲った。広い川面でさえ炎は舐めつくした。かろうじて熱風を避けた者たちも、川の両岸を烈火に取り囲まれ、とりつく岸もないまま水に沈んだ。焼け爛れて引きつった筋肉では、長時間泳ぎつづけることができなかったのである。

 劫火につつまれた街を、あてもなく剣心は歩いた。

 どこまで歩いても、惨状に変わりはなかった。

 火ぶくれた馬が、燃え上がる荷車を牽きながら、狂ったように走り去るのを見た。

 石の壁に焼き付けられた黒い人影を見た。

 大きな川に架かる橋にさしかかったとき、石畳に赤黒い足跡が点々と残されていることに気づいた。灼けた大地を裸足で逃げた人々の血の足跡だった。

「嘘だ」

 こんなはずがない。

 こんなはずがない。

 よりよい時代の到来を信じていたからこそ、みずからの手が血ぬられていくのも耐えることができた。

 これは嘘だ。

 幻覚に違いない。

 そうでなければ ───── そうでなければならないはずだ。

 立ちつくした剣心の傍らを負傷者の一群が通り過ぎていった。腕をおろすと激痛が襲うのだろう。幽霊のように前方へ突き出された腕には、溶けた皮膚が氷柱(つらら)のように垂れ下がって揺れていた。頭髪は根こそぎ焼失し、顔は目も鼻も口も一つに丸めて膨らませたようになっている。全裸に近い姿であるのに、男女の別さえ分からない。強烈な熱線のせいなのか、衣服の絣模様を肌に焼きつけられた者の姿もあった。

 ここが ─────

 黄泉路で遭遇した死者の行列の始まりなのだ。

 あの数え切れないほどの犠牲。

 きたるべき未来が、この惨状だというのか。

「嘘だ…」

 その場にうずくまって頭をかかえた。これ以上、地獄の惨劇を見つづけることに耐えられなかった。できることなら逃げ出していただろう。だが、どこにも逃げ場はない。黄泉路でも、そして今でも。

 目を堅く閉じ、耳を塞いで時の過ぎるのを待った。

 どのくらい、そうしていたのだろうか。

 いきなり視界が明るくなった。

 いつのまにか四方を白い壁で囲まれた部屋の中にいた。

 まばゆさに目をしばたこうとしたが、躰が自由に動かせない。もっとも、さんざん不可思議な目に遭ってきたからか、いまさら何のおどろきも覚えなかった。

 目の前には、白い上掛けに覆われた鉄製の寝台があった。上掛けの中央が人の形に盛り上がっている。横たわっているのは遺体であるらしい。

 剣心の意思とは関係なく、勝手に腕が動いた。手は寝台の上掛けの布を掴み、ゆっくりとめくった。布を掴んだ自身の手を見やり、それが女の手であることに剣心は気づく。直感で、黄泉路で出会った女の手だと思う。彼女が過去に見た光景を、それも、ずっと昔に見た光景を、彼女の目を通して見ているのだと感じた。

 めくられた上掛けの下から、少女の顔が現れた。齢は、自分より若そうだが、そんなに幾つも違わないだろうと思える。うすい化粧をほどこされた少女の面差しは白く、悲しいまでに、あどけなく見えた。

「赦さない…」

 女の唇から、呪詛のように低いつぶやきが漏れた。とたんに爆発的な思惟が剣心の内へ流れ込んできた。

 ───── 白血病になったのは偶然だというの? いいえ、違うわ。

 ───── 彼女が死んだのは原爆のせいよ。

 ───── わたしは赦さない。戦争をおこしたひとを。原爆を落としたひとを。原爆が落とされるまで戦争を止めようとしなかったひとたちを。そして、わたしから親友を奪っていった運命を。神がいるなら神を。

 悲傷が、怒りが、激しい憎しみが、激流となって全身で荒れ狂う。息が詰まるほどの激情だった。

 流れ込んできた女の意識に剣心の意識は共鳴した。相通じた意識が、一瞬ですべてを理解させた。

 少女は被爆二世だった。少女は白血病で若くして逝った。

 白血病は多くの被爆者が苦しんだ原爆症のうちの一つである。しかし被爆による遺伝的な影響の有無は証明されるに至っていない。被爆者でなくても罹る病気でもある。

 だが、とつぜん友人を喪った女は、何かを憎まなければ生きられなかった。親友を奪い去った憎むべき『原因』が必要だった。少女の死は、原爆によるものでなくてはならなかった。彼女にとって、少女は原爆犠牲者以外の何者でもなかったのだ。

 ───── そんな…。

 こみあげる涙が視界をゆがませた。清らかな少女の死に顔が、ぼんやりと滲んで映る。こぼれ落ちた涙が、白いシーツに灰色の染みを作った。

 この悲しみは、だれのせいなのか。

 いまこそ剣心は思い知った。女のことばに嘘はなかった。彼女は、まさしく『事実』を見せたのだ。

 幕府を倒しさえすれば、なにもかもが、うまくおさまると思っていた。平穏に満ちた世界を作りあげるための礎だと思えば、犠牲も必要であると信じて疑わなかった。そして平和な世界が実現すれば、自分の罪は帳消しになるかもしれないという甘い期待が、まったくなかったといえば嘘になる。さればこそ、手にかけた者たちの命の重みを背負うことも苦にならなかったのである。

 けれど。

 百年たっても犠牲は強いられている。より大きく、より悲惨な形で。

 ───── そんなことになるなんて…。

 とめどもなく涙はあふれた。女が泣いているのか、それとも自分が泣いているのか分からなくなっていた。おのれの罪が赦されないものであることを、はじめて剣心は、はっきりと自覚した。







 剣心の目もとをおおっていた女の手のひらが、静かに取り去られた。ついで女の皙い顔が見えた。あふれる涙で彼女の面差しが歪んで映った。

「おれは…まちがっていたのか」

「そうね。あなただけじゃない。みんな間違っていた」

「おれがやってきたことは、…すべて無意味だったと」

「そういうことに、なるかしら」

「悲劇を避ける手立ては…ないのか」

「ないわ」

 女は小さく、ため息をついた。

「あなたには百年も未来の話でも、わたしにとっては、とうのむかしに起こってしまった出来事なの。起こってしまったことを、なかったことにはできない。運命を変えることは、だれにもできないわ」

「では…おれは…いったい、どうしたらいいんだ。どうすれば…よかったんだ」

 下肢から力が抜け、剣心は、その場に膝を落とした。嗚咽が肩を震わせるのを止められない。手のひらで顔をおおい、声を殺して泣いた。

 女は身をかがめ、剣心の肩に手をかけた。

「ごめんなさいね。あんなにまで見せるつもりじゃなかったの。やりすぎてしまって悪かったわ」

 見上げた面持ちには悲しげな翳りがあった。

「ともだちが…死んだのか」

「ええ。ただひとりの友だちだった。ここまで追ってきたけれど、連れ戻せなかった。わたしには何も…できなかったのよ」

 彼女もまた、変えることのできない運命を、苦い思いで見つめているのだと剣心には分かった。

「忘れてちょうだい。そのほうがいいわ」

 女は剣心の涙を指先でぬぐった。

 あたたかく、やさしい手だった。

 

 

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