水面の祈り (みなものいのり) 四
ゆるやかな坂道を、女に手を引かれながら剣心は下った。自力で歩むことを拒むかのように下肢は力なく頼りない。 ───── もとの世界に戻ってどうなる。また人斬りとして働くのか。 訪れる未来の惨劇を知った今、なにを考えるのも辛く、虚しかった。 どうせ自分が、どう生きたところで運命は変わらないし、罪が赦されるわけでもない。生きる価値も死ぬ甲斐もなく、ただ絶望を喰んで時を過ごすのだ。投げやりな気分になるのは仕方のないことだろう。 いつしか坂の傾斜は終わり、平坦な道になっていた。薄墨を刷いたような晩景に、砂の白さが際立って見える。 湿った風に頬を撫でられ、ふと剣心は我に返った。 山で感じていたものとは、あきらかに違う空気が、あたりを満たしている。かすかに、川のせせらぎの音がする。そばに川の流れがあるようだ。 ───── そういえば、山径で迷っていたときに、川を探そうとしたな。 そこが根の国であるとも知らずに。 自分の愚かさを哂いたい衝動に駆られた。 あれから、もう百年も経ってしまったような気がする。 剣心の懊悩を知ってか知らずか、女は剣心の手を引きながら、道の片側に生い茂る丈の高い草を掻き分けた。その先には草の原が拓けていて、草の原の先には土手がつづいていた。そして土手の向こうには海かと見まごうほど広い川があった。川面には、いくつもの小さな光が飛び交っている。 「蛍だ」 虫の音ひとつしなかった世界に蛍がいる。 暗い水面に、光の輝きが、ひときわ映えて美しい。輝きは目にしみるほど懐かしく、なぜか無性に嬉しかった。 ふたりは川原に降り立ち、しばらくは無言で川面を見つめた。 数え切れないほどの蛍は、やさしげな光を放ちながら、上流へ向かって飛んでいた。そのうちの一つが傍をかすめたとき、女は静かに手を伸ばした。 皙い両の手のひらに、かがやきを発する小さなものが捕らえられた。ゆるく組んだ指の隙間から、やわらかな光が、ちらちらとこぼれている。彼女はゆるやかに腕を引き寄せて、こんどは剣心のほうに、うながすように手を差し出した。 剣心は誘われるままに手をのべた。光が手渡しに移される。光るものが手渡された瞬間、あたたかいものが剣心の胸の奥で弾けた。 絶望で、ひび割れた心の中に、染み入るように満ちてくるもの。 蛍ではない。 それは祈りの声だった。 「これは…」 おどろきと戸惑いで、ひどく間の抜けた顔をしていたのかもしれない。女は目に笑みをたたえながら、下流のほうへと面をめぐらせた。 「原爆が落とされたと同じ日が来るたびに、かつて死体で埋めつくされた川へ、ひとびとは灯籠を流して祈りを捧げるの。もう二度と、そんな悲劇が起こらないように…って」 女は下流を指さしながら言った。彼女が指さす彼方から、川面を埋めつくさんばかりの数の灯籠が、滔々と遡ってくるのが見えた。灯されたあかりが、とりどりの色に飾られた灯籠を内側から照らし、夢のように、さまざまな色彩で水面を彩っている。 川の流れを逆走しているうちに、灯籠は、またたく光へと姿を変え、蛍の乱舞する様さながらに飛び交いながら、なおも上流をめざして水面を遡りつづける。 けっしてあきらめない旅人のように。 「祈りは届くのよ」 川面のきらめきが女の瞳に宿っている。彼女は強い光のこもった眼差しで、剣心を見つめた。 「人間は愚かだわ。戦争がもたらすものは破壊と憎しみだけだと知っていながら、懲りもせずに、それを繰り返す、救いようのない生きものよ。けれど、こんなに真摯な想いを、遠い彼岸の果てにまで送ることができるのも人間だけなの」 「祈りは…届く…」 「ええ、そうよ。祈りだけが、さまよえる魂の飢えや痛みを癒すことができるのよ。祈りに触れたとき、彼らは、つぎに行くべき場所へ行くことができるの」 「だが…救うことはできない。運命を変えることもできない」 「そうね。たしかに運命を変えることはできない。死者の命運を変えることはできない。でも、生きているあなたは、自分の生き方を選ぶことができる」 「生き方を…選ぶ…?」 「運命は変えることはできなくても、人生は変えることができるのよ。命ある限り、けっして遅すぎたりしないわ。わたしも、まだ人生という旅の途中なのよ。自分を変えるための道を探しているの。きっと、あなたもね」 「変える…自分を…」 剣心は自分の手のひらを見つめた。罪と血に穢れたこの手が、清められる日がくるのだろうか。 「駄目だ…、生き方を変えたくらいでは、きっと赦されない。おれの罪は、それほど軽くないんだ」 「そう?」 ふわり、と女は微笑んだ。 「確実に赦されるのでなければ、罪を償う気にもならないってわけ?」 女のことばが、衝撃となって、剣心の胸をつらぬいた。 ───── そう…だ。おれは何を思い上がっていたんだ。赦されなくても償いつづけるのが真の償いじゃないのか。 剣心は顔が赤くなるのを感じた。自身の傲慢さを見透かされたような気がした。 罪の意識に囚われて立ち止まるのは、自分が、それ以上傷つかないための方便であり、自己欺瞞にすぎない。 逃げることと同じだ。 真に悔恨の念があるなら、おのれの傷を哀れんでいる暇はないだろう。 生きなければならない。 たとえ、どれほど痛みがあろうとも。 ───── 戻らなければ。 自分が、もといた世界に。 そして人生を変えるのだ。 この手で殺めた人々の命への償いのために。 これから新しい時代を生きていく人々のために。 なによりも、自分自身のために。 剣心の胸の裡を読み取ったかのように女は笑った。はじめて見せる、ものやわらかな笑みだった。 「この川を渡った先に、あなたの生きていく世界があるわ」 彼女は闇にけぶる対岸を指さし、うながすように剣心の背を押した。 「わたしの友だちのために泣いてくれて、ありがとう。また、いつか会いましょうね」 「ああ。また、いつか」 やさしく背中を押されて、剣心は水辺に足を踏み入れた。冷たくはなかった。どこか遠い昔に慣れ親しんだような心地よい温かさが、さざ波となって足を洗う。 川底を踏みしめながら中ほどまで歩き、いま来た岸を振り返った。川辺に女が立ち、こちらに向かって手を振っている。 ほのかな川面の煌めきが、明るみとなって、女の姿を岸辺に浮かび上がらせている。やわらかな光の衣をまとって手を振る姿は、天女のように美しかった。 黒衣の天女。 あるいは贖罪の天女だったのか。 ───── けっきょく最後まで名乗らなかったな。 送ってもらった礼も言えずじまいだった。 下流から新たに押し寄せた光の渦に巻き込まれながら、剣心は思う。 だが、いつかまた出会うこともあるだろう。生きるだけ生き、やがて正しく死を迎えたときに。そのときには、おたがいに笑っていられるように、と祈るように剣心は思う。 対岸を目ざす剣心の躰を無数の『祈り』が取り囲んだ。薄闇の世界が、しだいに白く染まっていく。いくつもの輝きが、剣心の躰に触れては弾け、そのたびに、祈りの歌声が、体内に満ちあふれた。 嬉しかった。 想いは届くのだ。 罪が赦されなかったとしても、命ある限り、遅すぎることはないのだ。 祈りの声を聴きながら、剣心の意識は薄れていった。 なにもかもが光になっていくようだった。
───── あれ…? これもまた見憶えのある夜具の中に、おさまっている。 剣心は、起き上がろうとして身じろぎ、ずっしりと躰が重いことに気づいた。まるで砂をつめたように重い。 「緋村」 呼びかけに驚いて、声の主を確かめようと顔を向ける。枕もとに桂の姿があった。 「桂…さん?」 「目が醒めたようだな」 「おれは、どうして…」 「憶えていないのか」 懸命に躰を起こそうとする剣心を、桂は、あわてた様子で押さえた。 「まだ起き上がるのは早い。死にかけていたんだぞ。ゆっくり躰を休めるんだ」 とりあえずは桂の言に従いつつ、混乱する記憶を整理した。 巴の葬儀を終えたのちに、この家へと戻り、茫然自失していたところへ桂の訪問を受けた。彼から、今後は人斬りではなく、遊撃剣士として働くように言い渡されて、それからあとの記憶がない。どうやら失血死寸前の重症を負いながら、たいした手当てもせずに動きまわっていたせいで、ひと段落ついたとたんに気が抜けて倒れてしまったらしい。二、三日のあいだは高熱がつづき、生死も危ぶまれたのだという。 「すみませんでした。桂さんも、お忙しい身なのに」 「いや、かまわんよ。幸い、と言っては何だが、近所の人たちが世話をしてくれたので、いい骨休めになった。おまえの人徳のおかげだな」 手伝いに来ていた隣家の主婦が淹れてくれた茶を飲みながら、桂は笑った。志士狩りが激しくなる一方の現在、潜伏先での生活も、けっして心安いものではないのだろう。桂の表情には、色濃い疲労の影があった。 「ところで緋村、目醒める寸前に、夢を見ていなかったか」 「夢、ですか」 「幸せそうに笑っていたよ」 「おれが?」 「ああ。おまえの笑顔を見るのは初めてだったから、すこし驚いたな」 言われてみれば、長い長い夢を見ていたような気がする。しかし、夢の記憶は、手繰り寄せようとすればするほど霞のように儚く薄れ、やがて痛みに似た情感だけを残して消え去ってしまった。 「内容は憶えていません。でも、…いい夢だったような気がします」 不思議に気分は、すっきりしていた。 倒れる以前は、巴の死が納得できずに苦しんで苦しんで苦しんだ。事故とはいえ、赦せる過失ではないと自分を責めつづけた。いまだに、その想いに変わりはないものの、なぜか穏やかな気持ちで、彼女の面影を追うことができる。 ───── 熱で頭が倦んだのかな。 そうかもしれない。だが、それでよかったのかもしれない。巴の死に誓った贖罪を果たすために、いましばらくは前を向いて生きていこうと剣心は思った。
剣心は、積雪を踏みしめて帰途につく桂の後ろ姿を見送り、そのまま長いこと戸外の眺めに見入った。 一面の銀世界。 春まだ遠い冬枯れの山野は、汚れなき冠雪におおわれている。厚い雲間から日脚がこぼれ、降りつづける雪に乱反射して、蛍が乱舞するような輝きを躍らせている。 束の間、強烈な既視感が胸に迫った。 ───── どこかで…? 泣きたくなるほど懐かしい郷愁が胸をよぎる。 だが、記憶のどこにも手ごたえはない。 とうとつに、ひとつのことばが脳裡をかすめた。 ───── 祈りは届くのだ。 だれが言ったのかは知らない。けれど今は、そのことばを信じていたい。 祈るような想いで、剣心は雪景色の彼方を見つめた。 |