誰でも一度は思いつく『記憶喪失ネタ』です。
密着度は高いですが、そーゆーシーンは、ありません。
ま、ソレは、ソレとして、そのうちに。
いちばん書きたかったのは『かちかち山』のくだり。
昔、読んだ小説に、そーゆーのがあって、すっごい怖かったの。
昔話とか童話とかって、すでにホラーだと思います。
Only love never dies. 1
午前五時、十分前。交代の時刻が近づいている。警備員の佐野は、仕事上がりの前にと、もう一度エントランスホールを警備に回っていた。ふとエレベーター付近に人影があるのに気づいた。住人が朝帰りしたのかと思い、声をかける。 「お早うございます」 佐野の声に振り向いたのは、このマンションの住人であるバーナビー・ブルックスJr.だった。たまにしか顔を合わせないが、会うことがあれば、いつも愛想よく挨拶してくれる好青年であり、この街シュテルンビルトを守るヒーローでもある。だが、なぜか今日は、無言で佐野を見つめるだけだ。 「…………あの、なにか?」 よく見ると彼はナイトウェア姿で、腕にピンク色のウサギのぬいぐるみを抱いている。佐野が次の言葉に困っていると、青年は、おどおどした様子で口を開いた。 「ここは、どこ? おとうさんと、おかあさんは、どこ?」 ジェイク・マルチネスのテロ事件が解決して二ヶ月ほど経ったある日、出勤前の早朝に、ヒーローTVの敏腕プロデューサーであるアニエス・ジュベールから、鏑木・T・虎徹へと緊急の呼び出しがかかった。呼び出された場所はゴールドステージでも一等地に建つ総合病院だった。そこは医師も設備も、加えて入院費も超一流という話で、患者は、いわゆるセレブばかりだと聞いたことがあった。 私服で、しかも内密に来いと言うからには、事件性は低いのだろう。職業がバレてはマズイのだろうし、虎徹の正体がバレて困るのは当人の虎徹くらいだから、おそらく相棒のバーナビーに関することだろう。ここ数日の相棒には、さほど変わった様子はなかったと思うのだが。知れると不味い病気にでもなったのだろうか。虎徹には想像もつかない。 まるでホテルのフロントのような病院の受け付けでアニエスを呼び出すと、高いヒールの音を響かせながら彼女は小走りに駆けてきた。いつもなら高圧的な態度の女なのだが、なぜか今日は目に力がない。 「待っていたわ、ミスター鏑木」 アニエスについて廊下を歩く。事情を聞いても「あとで」と撥ねつけられ、ああ、そういえば内密だったな、と思う。人目のある廊下で話すわけにはいかないのだろう。 病室と呼ぶには豪奢すぎる病室に入ると、真っ先にアポロンメディアのマーベリック社長と、虎徹の上司のロイズが来ていたのが目に入った。部屋の奥にはベッドがあり、そこに検査着姿のバーナビーが座っている。彼の目は、こちらを窺うように、じっと虎徹を見つめていた。 「よく来てくれたね、鏑木くん」 マーベリックは虎徹を部屋の片隅に差し招いた。 「どういうことなんですか?」 「じつはね、バーナビーが……記憶喪失になったようなのだよ」 「はぁ?」 バーナビーが、今朝方早くに、寝間着のまま、マンションのエントランスを所存なげに、うろついていたというのだ。管理人と警備員が彼の異常に気づき、緊急連絡先のマーベリックに報せたのだそうだ。 「ドクターが言うには、肉体的には、なんの異常も問題もないって。でも……」 マーベリックから話を引き継いだアニエスは、抑えた声音で、早口で言った。 「記憶がないの。正確には、四歳の……ご両親が亡くなる寸前からの記憶がないみたい。記憶喪失というよりは退行現象かしら」 「……つまり?」 「いまバーナビーは四歳で、まだご両親がご存命だと思っているのよ」 バーナビーは四歳のときに両親を殺され、その後の二十年間を犯人探しと復讐のために捧げていた。そのためだけに生きていたといっても過言ではないだろう。そして二ヶ月ほど前に、ようやく彼は、念願を果たすことができた。長い復讐劇にピリオドが打たれたことで、心に何らかの衝撃があったのかもしれない。心因による一過性の記憶退行だろうと医師は言うのだそうだ。 虎徹はベッドのバーナビーをちらりと見た。ピンク色のウサギのぬいぐるみを抱いて、不安そうに、周囲を眺めている。あのぬいぐるみには見憶えがある。ああ、誕生日に皆でプレゼントしたヤツだ。捨ててなかったんだと思うと、少し嬉しい。 「そこで、きみに頼みがあるのだが……」 マーベリックは言いにくそうに続ける。いつ治るのか、そもそも治るものかどうかも、はっきりとは分からないが、しばらくバーナビーを人里外れた場所で静養させたい。ちょうどシュテルンビルト郊外にバーナビー家所有の別荘があるから、そこに移そうと思う。ついては、虎徹にも同行を願いたいと言うのだ。 「もちろん、それは構わないんですが……なんで、おれ? 医者でもないのに」 「もしバーナビーが能力を発動したら、だれが止められるの? だれにもできないわ、そんなこと。彼を止めることができるのは、同じハンドレッド・パワーを持つ、あなただけなのよ」 アニエスは胸の前で腕を組んで、ほう、とため息をつく。 そうなのだ。虎徹やバーナビーの能力であるハンドレッド・パワーは、五分間だけ身体能力が百倍になるというものだ。だが、それは同時に凶器にもなりえる。人体や建造物の破壊など簡単にできてしまうのだ。その気がなくても。 「それに、シーズンオフの今なら、周囲に人も少ないでしょう。たとえ何かがあっても、最小の被害で済むじゃない」 視聴率のためなら悪魔に(他人の)魂を売り渡すことさえ厭わない鬼プロデューサのアニエスだが、今回の事態を食い物にする気はないらしい。 もともと、お節介で人情家が身上の虎徹だ。大事な相棒のためなら断る理由がない。細かい打ち合わせをしたあとで、虎徹はバーナビーのベッドへ歩み寄った。 「やあ、こんにちは」 「……こんにちは」 バーナビーは、いつもより頼りなげに見えた。そういえば眼鏡をかけていない。それだけで、こんなにも印象が変わるのか。 「おじちゃん、だぁれ?」 訝しげに彼は聞いてきた。 ───── お、おじちゃんって。 まぁ、そうだ。四歳児から見れば、二十歳の青年だって立派に『おじちゃん』だ。だが『おじさん』より『おじちゃん』のほうがダメージが大きい気がするのは、なぜだろう。 「あー、えーっと、おじちゃんの名前はね、鏑木虎徹っていうの。きみのお父さんとお母さんのお友だちなんだよ」 「ふうん。じゃあ、おとうさんと、おかあさんは、どこ?」 「きみのお父さんとお母さんは、お仕事で遠くに出かけているんだ。いい子でお留守番できるかな?」 彼は少し目を伏せ、小さく頷いた。 腹の中で虎徹は唸った。たしかにバーナビーの外見は以前と少しも変わらない。明るい金髪に、整った賢そうな顔立ち。肌の美しさは育ちが良いことを窺わせる。目の色も神秘的な淡いグリーンで、初めて会ったときと同じだ。 だが表情が違う。深みというか、かげりがないのだ。神経質そうにひそめられる眉や、疑わしげに眇められる目がなくなっただけで、人の顔の印象は、こんなにも変わるものなのか。二十年かけて培われた知識も経験も、すっぽ抜けてしまえば、なかったことになるのだろうか。 たしかに今の彼は虎徹の知るバーナビーではなかった。口調も少し舌足らずで、どこか幼げだった。ふだんの彼を知る人が、今の彼を見たら、かなりのショックを受けるだろう。アニエスが食いついてこなかったのも、うなずける。もとがクールなハンサムで売っているだけに、イメージアップには、なりそうもない。 「じゃあ、服を着替えようか、バニー。下で車が待ってるから」 「……バニー?」 「あー、バーナビー」 彼は腕の中のぬいぐるみを見つめ、まるで、ぬいぐるみと話し合い、了解を得たかのように頷いてから虎徹を見上げた。 「ううん。バニーでいいよ、こてつおじちゃん」 |
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