電気仕掛けの竜は さかがりに涙を流す 二
ベッドサイドのスタンドの灯りに室内の様子がぼんやりと浮かび上がる。居間もそうだが寝室にも壁際には大きな本棚がいくつも置いてあり、中にはぎっしりと本が詰まっている。多趣味なラングの蔵書は専門書から、秘密めいたもの、禁書処分を免れたものなど、脈絡も統一性もなく並べられている。けれど薄明かりの中では、本の背表紙の文字は読み取れないだろう。 エドワードは服を脱ぐと、素早くベッドの中にもぐりこんだ。ラングも服を脱ぎ、上掛けをめくってベッドに入る。肌に触れると、彼の全身が冷えきっているのが分かった。先に湯を使わせればよかったかと思う。 エドワードの右腕は、彼の言ったように肩先から義手になっていた。義手や、義手を肩に固定するプレートが外れないようにするためのベルトが、胸を通って反対側に回されている。 「これを外してもらっても、いいかね?」 「なんで?」 「ありのままのきみに触れたいのだよ。無理にとは言わない」 「べつに…かまわねぇけど」 彼は起き上がり、義肢を外してベッドの下に置いた。 切断面を目にしたラングは、驚きを隠せなかった。初めて目にする技術が、そこにはあった。 「これは……?」 肉の内部に鉄製の輪のような部品が埋め込んであった。骨に直接つなげてあるのだろうか。軽く触ったくらいでは動かないほど、しっかりと食い込ませてある。肩の肉と鉄の部分の境目の皮膚は、少し固くなっていて、火傷の痕のように薄黒く変色していた。戦傷者なら何人も見てきたが、切断面がこんなふうに処置してあるのを見るのは初めてだった。 「痛そうだな」 「もう痛くねぇよ。でも寒いときとか、雨の降る前とか、長雨がつづくと痛むかな」 彼は自分の肩を撫でた。ラングもそこに触れてみた。変色が見られるあたりの肌はわずかに肌理が粗くなっている。指で触れた箇所にキスをすると彼は顔を背けた。
どうにもやりづらく、どこかに違和感があった。加虐性のある者なら、そそられるのかもしれないが、残念なことにラングには、その趣味はない。何にでも敏感に反応できる歳でもなかった。 ラングは大きく息をついて身を起こした。 「すこし休憩しよう」 言いながらベッドから降り、ガウンを羽織る。テーブルに置いてあった煙草を取り、火をつけた。 紫煙の向こうで、エドワードがベッドから起き上がるのが見えた。 「…だから、つまんねーって言っただろう。丸太だって」 吐き捨てるように言う。 「いやいや、そう卑下するものではないよ。つまらなくもない。ただ……」 「…ただ?」 「きみは愉しむことに抵抗があるようだ。なぜだろうと思ってね」 ラングのことばに、彼は目を大きく見開いた。 「なんだよ。オレのこと観察してたのか。ほんとうに悪趣味だな」 「映画人の観察眼を侮ってはいけないよ」 鼻で笑って見せると、彼は一瞬、目に鋭い光を走らせた。だが、それは次の瞬間には弱まり、動揺をさとられたくなかったのか、彼はすぐに目を伏せた。 「オレには…そんな資格がないから」 小さな声でつぶやく。 「資格? 愉しむのに資格が要るのかね」 エドワードは、ふたたびきつい目でラングを睨んだ。また彼の瞳に強い光が閃いた。眼光に射抜かれてラングの背筋に電撃が走る。 「あんた…オレをからかってるのか」 「とんでもない。心からの疑問だよ。きみが、なぜそう思うのか知りたいだけだ」 ラングの持つ『人間に対する好奇心』が頭をもたげた。本気でそう思う。 本気の言葉に、エドワードの心のどこかが動いたようだった。彼は何度か瞳に逡巡の色を浮かべ、搾り出すような声音で言った。 「オレの言うことなんて…誰も信じない。オレだって、時間が経つごとに、だんだん信じられなくなっていくんだ。生きている気がしないんだ」 そう言って、彼は話し始めた。
科学技術より錬金術の発達した世界。 ホムンクルスと呼ばれる生きもの。 禁忌を犯して失った手足。 禁忌のために身体を失い、魂だけで生きる弟。 同じ顔、同じ名前の別人が住む『もうひとつの世界』。 信じられない話だったが、妙に辻褄が合っている。それに対する裏づけと取れる事実もある。彼の手足の切断面や、筋肉の信号を受け取って動く義肢、めずらしい瞳の色は、この世界では、彼よりほかには見たことがない。 そういえばエドワードは初対面のとき、自分を誰かと取り違えていた。昼間に彼と話したパラレル・ワールドの実在例が、今ここにあるのだ。 ありえないと思うことは簡単だった。だが、そんな普通人と同じ価値観で彼を見ることは、すでにラングにはできなくなっていた。 話の途中で飲まずにはいられなくなり、サイドボードから秘蔵のウイスキーをひっぱりだして二つのグラスに注いだ。そのうちのひとつをエドワードに手渡すと、彼は一息にそれをあおった。 「今の自分は夢の世界にいて、夢を見ているのかもしれないと思う。でも今が現実で、過去が夢だったんじゃないかと思うこともある。それとも、これは他の誰かの夢の世界で、オレは誰かの夢の産物で、その誰かが目ざめたら消え去るのかもしれない。昨日、弟と偶然に会うことができたけど、それも時間が経ってくると、本当にあったことなのかどうか分からなくなってくる。自分が生きて実在してるって気がしないんだ」 エドワードは潤んだような声音で言った。 故郷に帰りたいのに、本当にそこが故郷なのか、そもそも実在するものかどうかも分からない。 帰る場所のない、寄る辺のない魂。 エドワードの矛盾した行動の意味が、ラングには分かったような気がした。自分を追い詰めてでもいいから、生きている実感がほしかったのではあるまいか。 「わたしは、きみを信じるよ」 「無理しなくていい」 「卑下するものではないと言っただろう。きみは稀有の存在だよ」 エドワードのグラスにウイスキーを注ぎ足しながらラングは言った。こんども彼はグラスの中身を一息で飲み干した。グラスの中のウイスキーと似た色の瞳に浮かぶ光が揺れる。彼の持つ危うさをラングはうつくしいと思う。 「そういえば、きみは最初に、わたしを誰かと間違えたな。わたしと同じ顔の人物がいたのだね。どんな人だった?」 「ええと…軍のお偉いさんで、雲の上の人だった。あまり、よく知らないんだ」 「それは残念だな。もっと知りたかったよ」 「…あ、でも、あんたのほうが、ちょっと若い気がする。あんた、いくつだ?」 「歳か? もうすぐ三十三だが」 エドワードは絶句した。 「…なにか問題でも?」 「あ、ああ、いやその、あっちのあんたは…たぶん五十とか、六十とか、そんな感じだったから、少し驚いた」 「まぁ、老けて見られるのは、いつものことだが、五十とか六十とか言われると傷つくね」 「だから、ちょっと若いって…」 「ちょっと?」 「……ずっと若い」 「お気遣い、感謝するよ」 ラングが笑って見せると、エドワードも少し笑った。白い歯列が、かすかに光る。 エドワードは自分に弟がいると言った。同じ髪と目の色だと。こんなに蠱惑的な瞳を持った者が、他にもいるとは、そちらのほうが信じがたかった。 「きみの弟も、きみと同じ色の瞳なのだね。母上が亡くなって、ほかに家族はいないのかね?」 「…弟が、ひとりだけ。ほかにはいない。親父は、いつも傍にいなかった。…そいえば親父も、目と髪の色はオレたち兄弟と同じだったな」 「では、きみたち兄弟の、その世にも珍しい美しい瞳は、父上の資質を受け継いだものか」 ラングは感嘆した。 一瞬エドワードは黙り込み、すぐに吹き出した。 「気色悪いな。芝居がかった言い回しをする」 「ひどいな。ロマンティックと言ってくれたまえ」 苦笑をまじえて言うと、それもおかしかったのか、彼はくすくす笑った。金糸の髪がゆれて、少女めいた面差しに淡い影を落とす。目元に陰影を刷く長い睫毛も髪の色と同じだ。 「友人は?」 「そんなにいなかったけど…何人かは」 彼は視線を遠くへさまよわせた。脳裡によぎる面影を追っているのか、なつかしそうに微笑む。 ふいにラングに意地の悪い衝動が起こった。 エドワードの深淵に石を投げてみたい。 深い淵に石を投げて、一見は穏やかそうな意識の水面に波紋を起こしたい。 彼が他人には見せない顔を見てみたいのだ。 それはエドワードに限らず、誰に対しても思うことで、いわばラングの裡に潜む性のようなものだった。 「きみは、それらの人々の幸せを願っているかな?」 彼は急に真顔になった。 「ああ」 「それらの人たちが不幸になるくらいなら、自分が不幸になったほうがましだと思う?」 「そんなの、当たり前だ」 「では、たぶん、きみの弟や友人たちも、同じように考えるだろうね」 「………え?」 「きみが、きみの弟や友人たちの幸せを願うように、きっと、その人たちも、きみの幸せを願っている。彼らも、きみが不幸になるくらいなら、自分が不幸になったほうがましだと思うだろう。きみは、きみの大切な人たちの願いを、今すぐに叶えることができるのだよ。きみが幸せになりさえすればいいんだ」 一瞬、ひどく間の抜けた顔をしたエドワードは、次の瞬間には顔色を失っていた。 「あ……」 彼の顔に驚愕が浮かび、ついで戸惑いの表情が浮かんだ。 波紋は思ったより大きかったようだ。 「そんな当たり前のことも知らなかったのかね」 「……知らなかった」 震える唇でエドワードはつぶやき、見る間に彼の目には涙があふれた。 まばたきもしないで彼は茫然と中空を眺めた。涙はとまる気配はなく、とめどもなくあふれては、静かに頬を伝い落ちた。 「そんなふうに…考えたこと……なかった」 「なら、考えるといい。自分を犠牲にして得られるのは自己満足だけだ。そんなものは、きみの友人たちの望みではないと思わないか?」 「そうか…オレは……生きていて…いいのか。幸せになって……いいのか」 「そうだよ。わたしも、そう願うよ」 遠い目をしていたエドワードは、ふいに自分の手に視線を戻した。 「ダメだ……。オレたちの、オレの……オレのせいで死んだ人がいる。怪我をした人も、取り返しのつかないことになった人もいる。そんなの………許されない」 彼は手のひらで自分の顔をおおった。 そうやって長いこと自分を責めつづけて生きてきたのだろうか。 傷ましさに心がうずくようだった。 ラングはベッドに歩み寄り、エドワードの背後にすべりこんだ。背中からそっと抱き寄せると、彼は力なく、しなだれかかってきた。泣いたせいなのか、アルコールの効果なのか、身体が熱をはらんでいる。 「それでも、きみが大切に思う人たちは、きみの犠牲の上に成り立つ幸せを、幸せとは思わないだろうね」 後ろから腕をまわして胸を抱きしめ、頭を抱き寄せると、彼の身体がくにゃりと力を失った。力の抜けた身体を上手に扱って、ベッドに仰向けに寝かせる。エドワードは目を閉じて、されるがままになっている。濡れた瞼に唇で触れると、彼は嗚咽で咽を震わせた。 どんな道を選ぶかは彼の自由だ。だが、いっときでも心が軽くなればいいと思う。いつの間にか本気でエドワードに情を覚えていた。 ラングは欲望ではなく労わるように気遣いながらエドワードに触れた。彼の縮こまっていた身体が少しずつ開かれていくのを見るのは、ある種の快感があった。頭を撫で、髪を撫で梳き、肩の接合部分のきわをやさしく撫でていると、つらそうにひそめられていた眉が、かすかにゆるんだ。 「…あ、…そこ、気持ち…、い…い」 古傷を慰撫されている感覚なのか、みだりがわしさのない声音で彼はささやいた。酔いもあるのか、すこし舌足らずになっている。 「どこが気持ちいい?」 「…そこと、…そこも。オレ…何か変だ」 「うん?」 「あんたに触られるとこ、ぜんぶ気持ちいい。……なんで?」 「さあ、なんでかな」 上気してきた頬を手のひらで包み込んで額にキスをすると、彼は小さな子どものようにラングの胸に顔をすりつけてきた。寝たいというより眠りたい様子だった。 「眠いかね? このまま眠ってもいいよ」 「うん…ううん、もっと…して」 とろけそうな目をして見上げてくる。しまった、とラングは思う。 捕まってしまった気がしたのだ。この金色の不思議な生きものに。
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